見出し画像

夜の手紙は、朝の手紙になった

水曜未明に浴室でアップロードした前回の投稿は、メモリ不足だったのか、昨日の夜気づいたら、書いたはずの文章の一部分しか書かれていなかった。
尻切れトンボな文章を上げてしまって申し訳なかったが、まぁ軽くてよかったのかもしれない。
結局また昨日の夜、湯舟から、全く同じではないものの、同じような内容を書き足して再投稿したので、私の中では変わらないのだけれど。

そう。
その投稿でも書いたように私は、担任の先生への1年間の感謝の気持ちとともに、現状、娘がクラスメイトとの人間関係、自分の在り方、考え方、対処の仕方、それを考えている上で、ちょっと気持ちが(まだ軽めではあるが)軽くつぶれてしまったのを、私が知ったこと、それを先生(学校)に共有する旨を、手紙という形でしたためた。

言葉を選び、書いたつもりだが、やはり夜に書く手紙は、一度寝かせた方がいい。

幸いなことに、春分の日というお休みを挟み、夜の手紙は私を冷静にするため、私の中での気持ちを整理するのには、とても役に立った。
そして、そこでお役目は終わりでいい、とも思った。

1日の祝日を挟み、家族で楽しく過ごしたことで、娘の気持ちの小さなほころびは、自ら少し繕われたようでもあった。

娘は繊細だが強いところもある。
それを信じて見守ってきた私だから、わかることもある。
直接、クラスでの日々のやりとり、経緯を見ていない私には、娘主観の断片的な内容しか知りえない。
だから、娘サイドだけに、自分の娘として、こうした方がより生きやすいとか、人間としての心の成長、生きるちょっとした技、考え方、そういったことをアドバイスするぐらいしか出来ない。

本人自身が、担任の先生の日々の話の中に、ドラマ3年A組を見てきた中に、何が大事なのか、どうしていくのがいいのか、自分が無力だと感じながらも、自分のために考え、挑んでいる、それを私は、見守り、疲れた心を温かく迎え包んでやることに重きを置くしかない。

しかし、学校という場で、公平な目で、日々の子どもたちを見守り、育ててくれているのは、先生だ。
娘が1年間、自分自身や周りに悩みながらも、学校が楽しいと通えたのは、明らかに先生の授業のおかげである。
そして、その先生なら、娘の現状を理解し、次の先生へつなげてくれる気がした。

あと1年。
同じメンバーでの1年。
娘の前向きな気持ち、そこでの葛藤、悩み、混沌、それだけでも、可能であれば、把握だけしておいてもらえること、そして、それを踏ん張ってこられたベースにあった先生の存在の大きさ、これからも、娘はそこで踏ん張ろうとするであろうこと、それだけを、今朝、私は手紙にしたためた。

夜の手紙は、朝の手紙へと変化した。

noteの投稿書き直しと同じく、傍から見れば、そんなに内容に変化はない。
元々相手方の何かについて書いていたわけではない。

でも、夜の手紙よりも、朝の手紙のほうが、どこか明るく、いい意味で軽やかで、簡潔であるように思えた。(ただ推敲されてすっきりしただけか(笑))

4月からの1年、始まってみないと何もわからない。
始まってもいないものを、不安がっていても仕方がない。

春休み、目標に向かって親子でやっていることを基本に置きながら、しっかりリフレッシュすることも大切に考えて、娘の自己肯定感の基盤をしっかり固めていこう。

自分の力で頑張ろうと思えること、
でも頑張り過ぎないこと、
頑張れないときは誰にでもあって大した事ではないこと、
どこにでも頼ろうと思えば頼れる存在があること、
すべて緩急つけながら、そのときそのときの自分の状態を見極めながら、
自分のペースで進めばいいこと。

いつもよりハグを長めにして、親子3人、また力を養っていこう。



サポートしていただける、というありがたみ、深く心に刻みます。 子どもに繋いでいけるよう、子どもにいろんな本を買わせていただくのに役立てようと思います。