見出し画像

「心を配る」ってこと 真っ直ぐな気 丸く包み込む心-2-

昨日書き始めたテーマ。

(1はこちらから)

相変わらず、サクッと読みやすい長さにまとめるのが苦手だ。

noteを書き続けていくことで、私の文章が少しでも洗練されていくといいのだけれど。

* * *

さて。

昨日「気を遣う」ということを、私なりに噛み砕いて考え直してみた。

その中で、「気を遣う」と同じ意味で使われる「心を配る」という言葉に、何か親しみを覚える自分に気づいた。

昨日の投稿中にも書いたのだが、「気を遣う」には、かなりの労力が必要で、「気を遣って、なんだか疲れたよ…」という表現もある。

一方、「心を配る」のほうはどうなのかな?と思えば、あまり「心を配り過ぎて、なんだか疲れたよ…」というのは聞いたことがない。

(「心が折れる」という言葉はあるが、ここでは「心を配る」に関して。私だけが聞いたことがない、ただの無知っていう可能性もあるけれど(笑))

「気」って真っ直ぐで強いイメージ

「気を遣う」と「心を配る」を考えたとき、「気」と「心」そのものが、まず同じなのかが気になった。

辞書をみると、「心」の説明のひとつには、「気持ち」と書いてあり、「気」の説明のひとつに「心、心のはたらき」とある。

明確な定義は、今の時代でも解っていないと思う。

なので、ここからは、私の主観オンリーである。

まず「気」というものについて言うと。

「覇気」「鋭気」「気功」「男気」「気合い」「元気」「気力」。

私の中で「気」が持っているイメージは、体から出てくる真っ直ぐに進む線だ。

体から直線的に出された勢いのある線、波動、ビームだ。

「気を遣う」=相手の言葉やしぐさなどを見極めるときに、その波動を張り巡らせて調べているイメージなのである。

(ちなみに「茶目っ気」「気配」とか、「き」じゃなくて「け」で読むものは、波動が弱そう、と思っている(笑))

でも、ビームを出すって、能動的なことで。

だから継続してやっていると、疲れる。疲れちゃう。

だから「気を遣って、なんだか疲れたよ…」状態になるのだと思う。

だから、自分の気をフル充電の状態に近づけておかなければ、十分に「気を遣」えなくなる気がする。

余裕がないとき、というのは、気の充電が足りていないときなのかもしれない。

「心」は自然とにじみ出てくるオーラのようなもの

では、今度は「心」について。

「真心」 「親心」「仏心」

んー、「しん」ではなく「こころ」読みに限ると、なかなか見つけづらい。

あ、「下心」(笑)

こんなもんかな。

「心」を感じるときって、暖かさとか、冷たさとか、温度が関わっているように思う。

「気」が、体から能動的に出される強い波動だとしたら、「心」は、体全体から自然と湧き出てくる、 溢れてくる柔らかいオーラのようなもの、私にはそう感じる。

「気」がシャワーだとしたら、「心」は湯船から上がってくる湯気、伝わってくる温もり。

そんな感じだ。

なぜお風呂を例にしたのか?

自分でもわからないから、突っ込まないでもらえるとありがたい。

「気」は、無意識でも、よし、出すぞ!と思っていて、「心」は、出すぞ!と思わなくても自然と出せているものなのかもしれない。

「心を配る」のは、「気を遣う」よりも、波動が優しいだけに、押し付けがましさが少なかったり、自分にも優しいのかもしれない。

ん?

「北風と太陽」みたいな何かを感じるが、そこまでではないか(笑)

「気」と「心」のベースとなるもの

書きながら、どこかで、これは言葉遊びの範疇でしかないのか?という気もしているが、まぁ続けていこう。

「気」や「心」は、激しく出すか、にじみ出るか、どちらにせよ「水」のようなもので、蓄えがなくなれば、枯渇してしまうものだと思っている。

子どもの頃からの蓄えとか、消耗のスピードとか、充電環境とか、自家発電出来るかどうかとか。

そういう違いが「気」や「心」の違いを作っているのだと思う。

余裕がある人が「配ってくれる心」で充電され、今度は自分も、また別の誰かに配ってみる。

丸く包み込んでみる。

いろんな人が、消耗し合う関係ではなく、充電し合える関係、そういうところに身をおけるといいな、と思う。

うん。

なんとなく自分の中で形がついた、と思うこのへんで、終わりにしたいと思う。

1、2と読んでくださり、ありがとうございました。












サポートしていただける、というありがたみ、深く心に刻みます。 子どもに繋いでいけるよう、子どもにいろんな本を買わせていただくのに役立てようと思います。