【連載】運命の扉 宿命の旋律 #58
Finale - 最終楽章 -
それは小さなピアノコンクールだった。
大学3年の秋、稜央はレッスン講師の勧めもあって出場することにした。
音楽学部に所属していない成人部門で課題曲をこなして予選を通過し、本選はコンサート形式になった。
萌花はキョロキョロと周りを見回しながら、前から3列目の中央より少し下手寄りの席に着いた。まるで誰かを探しているようだった。
席には既に桜子と陽菜が座っている。
では誰を探しているのか?
その目当ての人が見つからなかったのか、やがて小さくため息をついて前を向くと、ちょうど稜央がピアノの前に着席する際に目が合い、2人は微笑み合った。
稜央の出番は最後から二番目で、演目は自由に選べたため、ラヴェルにした。
『水の戯れ』
表現力が最も問われる。
本当の力試しだ、と稜央は思った。
萌花は稜央の、弾き始めの瞬間の厳かな表情が大好きだ。
軽やかに水が滴り跳ねるようなイントロが流れ出すと周囲の観客が少し息を呑む。
その様子に優越感を得て、萌花は目を閉じる。
そして何より、稜央がこの曲を弾くようになったきっかけは自分なのだから、その優越感は益々高くなった。
広がった水紋がやがて静まるように演奏がフィニッシュを迎えると、それこそ溢れる水のように湧き上がった拍手はいつまでも鳴り止まなかった。
萌花は「優勝まで行かなくとも、入賞は絶対する」と鼻高々だった。
手が痛くなるほどの拍手を送りながら、稜央の視線を追ってふと後方を見やる。
* * *
一年前の秋。
稜央は東京で過ごした、あまりにも残酷な1ヶ月半を振り切るように地元に帰り、しばらくは萌花とも連絡を取る事が出来なかった。
父である遼太郎に起こったことは、誰にも話せなかった。
萌花から遼太郎が無事だったと連絡をもらった時は慌てて家を飛び出し、萌花との電話口で恥ずかしげもなく号泣した。
母の桜子は数日前に遼太郎と交わした短い会話、稜央と遼太郎が接点を持ったことにひどく動揺をしていた。
だから稜央が1ヶ月半振りに戻ってきた時、もう全てを悟って戻ってきた時、桜子は何と声を掛けたら良いか、わからなかった。
陽菜が寝ついた夜、重たい沈黙を破ったのは稜央だった。
「もう父親の話はしない。母さんが最初から言ってたように、いないもんだと思うようにする。散々引っ掻き回して、ついに明らかにさせておいて今更かよって思うかもしれないけど…もうこれ以上何もしたくない。
…今まで本当にごめんなさい」
「彼と…話をしたんでしょう? 何かあったの?」
「…したけど、あの人は僕の事を息子とは呼ばない、二度と俺の前に現れるなって言った」
桜子はそれで稜央が深く傷ついたのだと思い、遼太郎の態度も最もだと感じた。既に家族がいるのだから。
息子の頭を抱きかかえ、ごめんねと謝った。
稜央は「だから、もう二度と僕に謝らないで」と言うと、桜子は身体をピクリと反応させ「そうだね」と答えた。
先日電話で久しぶりに聞いた遼太郎の声。
彼は涙声で一言「許しを乞うのは俺の方だ」と言った。
数年前、小雪のちらつくクリスマスイブのあの日も…彼は謝った。
あたしたち…ずっと罪の意識を抱えて生きてきたね。
とっくに別々の人生だったのに、こんな形でまた交差して、出逢ったのが運命なら、互いに課せられたこの罪の意識は宿命だったのかしら。
でももう、いいよね。
野島もさ、もう謝らないでよね。
あんたが泣くなんて…だめだよ絶対。いい男が台無しだよ。
あたしのことも稜央のことも、永遠に忘れてくれていいから、今の家族と平穏に生きていって欲しい。
稜央が桜子の胸に頬を埋めていると、母が泣いているのがわかった。
「母さん…。母さんは、あの人のどういうところが好きだったの…?」
桜子は鼻をすすって答える。
「…全部。何もかも、ぜぇーんぶ…大好きだった…」
涙を指で拭った桜子の目に後悔はなく、新たな決意にむしろ誇り高く輝いていた。
そして稜央を抱き締める腕に力を込めた。
* * *
再び稜央はピアノに打ち込んだ。
バイトも掛け持ちを辞め、大学の授業もそこそこの状態で、ピアノのレッスンに通った。
幼い頃最も好きだったバッハ。
しばらくの間は『平均律クラヴィーア』ばかりを弾いて、とにかく心を鎮めようとした。
ラヴェルを弾けるようになるまでは一つ季節を超える程の時間を要した。
* * *
コンクールの前、萌花は1通のメッセージを送った。
直前まで送るか否か迷った。あれから日も空いていたし、現在彼がどういう状況なのかも全くわからなかったから。
けれど。
彼は稜央のピアノを気に入ってくれたと信じている。
稜央も彼から “思いがけない言葉をもらった“ と話していたからだ。
だから聴いてほしかった。
舞台で弾く彼の姿を観てほしかった。
もちろん、返事が来ることはなかった。
当日、いくら会場内を見回しても、彼の姿を確認することは出来なかった。
* * *
曲が終わり喝采が響く中、稜央は一番奥の出入口に目が止まる。
トレンチコートを手にし、ドアの前に立つ男。
ハッとする。
目が合ったのはほんの0.5秒だろうか。いや、少し離れているから目が合ったのかどうかもよくわからない。
男は直ぐに出て行った。
稜央はそれを追うように舞台を下がる。
舞台袖から通路を通ってロビーに駆け出る。
見渡しても男の姿はない。
正面玄関から外に出る。
どんなに見回しても、やはり男の姿はなかった。
出ていく直前の男の表情は笑顔だったのか、泣き顔だったのか、わからない。
はっきりと捉えたはずなのに、霞がかかったようにぼやけていく。
それが悲しかった。
立ち尽くした稜央は小さく呟く。
「父さん…」
Fin
年またぎの長い連載、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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