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食事と音楽と男と女 #10

私は夜は眠れていたし、それよりも空腹に耐えられず、直人を起こさないようにそっとベッドを抜けてキッチンに向かった。

普段は開けっ放しのキッチンのドアを閉め、音が鳴らないようにトーストを焼き、コーヒーを入れて狭いキッチンでこっそり朝食を摂った。

直人が目を覚ましたのは、お昼を過ぎてからだった。

「紗織…腹減った…」

弱々しく発したその一声に思わず吹き出してしまう。
ベッドのそばに行き寝起きの顔を覗き込むと、眠たげに顔をこすった。

「よく眠れた?」
「うん…腹減ったよぉ紗織ぃ…」

寝返りを打ちながら甘えた声を出す。少し、ホッとした。
「どっかお昼食べに行く?」
「それもいいけど…その前に何か飯」
「どういうこと?」
私は笑った。

「昼飯にたどり着くまで耐えられない…」

私は非常食用にとってあるカップラーメンを用意した。
3分経って出来上がりを知らせると直人はベッドから飛び起きて、3口くらいで食べたのではないかというくらい、あっという間に食べ終えた。

「少しだけ生き返った…」
天を仰いで、直人は言った。
「良かったね…って少しだけ?」

Tシャツにパンツ姿のままでぼんやりしていた直人は、疲労の色が濃く残ってはいるけれど、それでも穏やかな表情に私の心はまだ少し痛んだ。

直人の手が伸びて私の髪をクシャクシャと撫で、頬を撫でた。

「シャワー借りてもいい? そのあと車でどっか飯食いに行こう。あぁ、駐禁切られてないといいな」

* * * * * * * * * * 

無事に駐禁は切られていなかった。
直人はシートベルトを締めた後、ふうっと一息ついた。

「昨夜…俺、本気でビビってた。まいったよ…」
「私…わざとスマホの電源切ってたの」

直人はチラリと私を見たけれど、穏やかな表情は変わらなかった。

「”もういい” って、怒ってたもんな、紗織」
「そしたら心配してくれるかなって、思って…本当にごめんなさい」
「その通りになったね。謝らなくていいよ。俺もかなり大人げないことしたから」

そして直人はスマホを取り出し「何か聴きたいものある?」と訊いた。
「ドライブに合うような曲がいいな」
「う~ん、そうだな…。じゃ、これ」

カーステレオからNulbarichの「NEW ERA」が流れ出すと、直人はハンドルを切って大通りへ滑り出した。

都心のドライブに合う曲だな、と思った。

運転しながら、直人は言った。
「少し前にサトルから宣戦布告されたんだ」
「え? 何、それ」
「”僕は諦めません。いつか直人さんから紗織さんを奪ってみせます” って、メッセージが来たんだよ。青臭いやつだなって最初は思ったんだけど、なんか引っかかっちゃってさ。だから俺、紗織にも店に行くなって言ったりしたんだ」
「そうだったの…」

昨夜、帰り際に中村くんは私にもそう言っていた。笑顔で。

まだ胸が痛む。

「紗織もサトルのこと、何となく気にかけてるっぽいし、本当にそうなるんじゃないかって怖気づいたり、紗織を絶対に奪われたくないって思ったり。俺って本当に大人げないだろ? 30半ばも過ぎた男がさ、二十歳そこそこの学生相手に怖気づいてんだぜ」

そう言って少し嘲笑った。

「それに本当の愛って好きな相手の幸せを願うのものってよく言うだろ。でも俺は自分のことしか考えてなかった。紗織は俺のものだから誰にも渡さないって、考えてた。本当に自分が情けない」

確かにそんな事を直人が言っていたのを思い出した。

「それで昨日のことがあった。真夜中に急に電話が繋がらなくなって、本当に怖くなった。サトルのとこに行っちゃったのかとか、自暴自棄になって事故にでもあったんじゃないかとか、事件に巻き込まれたんじゃないか、とか。紗織にもしものことがあったら、俺、無理だなって。それでやっとわかった。俺にとって紗織がどれだけ大切な存在かって。だから紗織を縛り付けてはいけないって」

「…ありがと」
私はそれしか言えなかった。

* * * * * * * * * *

30分ほど走って、都内の魚介系イタリアンのお店に来た。
ランチには遅く、ディナーにはまだ早い時間。

スルメイカ・芝エビ・セグロイワシのフリット、鯛のアクアパッツァ、アサリとトマトのリングイネ、からすみのスパゲットーニ…

「そんなに食べるの?」
「俺、痩せの大食いだって知ってるでしょ。それに大した量じゃないと思うよ」
「さっきカップラーメン食べたよね?」
「あれ、食事のうちに入らないでしょ」

私はこの先、もしこの人と結婚することになったら…エンゲル係数はどうなるんだろうと、少し不安になった。

「お飲み物はいかがなさいますか?」
店員さんが私たちのやり取りを聞いて、ちょっと笑っていた。
「あ、俺ガス入りのミネラルウォーターで。紗織は飲みなよ、ワイン」
「でも…」
「あ、ランブルスコがあるよ。これなら魚にも合うし。せっかく美味しい料理があるんだから、飲んで」

そう言われて、赤の発泡ワイン、ランブルスコを飲むことにした。

料理が運ばれてきて、少しづつお皿に取って渡してくれる。どれもとても美味しかった。
アクアパッツァは、身を大きめにほぐし、頭の近くと尾の近くそれぞれを取り分けてくれた。

「めちゃくちゃ美味しい」

思わずニンマリして言うと、直人も嬉しそうに笑った。

赤とはいえ、ランブルスコはさっぱりとした微発泡で僅かな甘みも感じられ、魚介にも確かに合った。

直人は本当に炭酸水だけでどんどん食べた。清々しいほど。
あんなに細い身体で、どうなってるんんだろうと思う。そういうとまた服をまくってお腹を見せられても困るので、黙っていた。

「ふぅ…やっと生き返った…」
直人は満足気にお腹を擦って息をついた。
「ほんとに全部食べたね…」
「当たり前だろ。残したらバチが当たる」

店を出て、車で少し走ることになった。深まる秋に日暮れの時間も早くなってきている。

直人は湾岸沿いが好きみたいだ。この日は千葉方面へ走らせた。「たまには下道でゆるりと行くか」

「俺も、サトルのとこ行ってみようかな」
ふと、そんなことを言う。

「え?」
「宣戦布告、受けて立つよって、言ってやろうかと。アイツどんな顔するかな」

バックミラーをチラリと見やり、笑顔でそんな事を言う。
「火に油を注ぐタイプだった?」
「俺? そうなっちゃう?」

信号待ちで停まった際に、窓に頬杖をつくように首を傾げて私を見た。

「俺、サトルのこと相当可愛がってたんだよ」
「わかるよ。中村くんも言ってたよ。可愛がってもらったって」
「ほんと? 嬉しいね」
「彼は直人にすごく憧れているとも話してた。心のどこかでは敵わないって思っているんだろうけど、だからこそ目指したいのかなって。あなたを」
「俺を目指しても大した人間にならないぞ」

信号が変わって、再び走り出す。
「そんなことないでしょ」
「昨夜みたいな情けないこと言う男、俺は嫌だね」
そう言って笑った。「まだサトルの方が男らしい」

BGMはTHE CHARM PARKの「君と僕のうた」が流れていた。

韓国で生まれて、アメリカで育って、日本語でも歌をうたえる、ハイセンスなアーティスト、と直人。

「俺もミュージシャン目指せば良かったかなぁ」と笑う。

「大学ではジャズ研で、ベースとかギター弾いてたんだっけ。一時期は本気で目指したことあったりしたの? ミュージシャン」
「いや、そこまでは」
「前にプログラム言語やっていれば世界中どこでも通用するからって話していたけど、音楽だってそうだよね」
「まぁね。それより」

直人はそこで言葉を区切り、意味深に私を見た。
「なに?」

「歌うたってよ。俺、紗織の歌、聴きたい」
「えぇ…別に上手なわけじゃないから」
「いいんだよ。求めてるのは上手さじゃないから」

車の中なら気兼ねないでしょ、と嬉しそうに言う。
「じゃあ条件付けさせて。直人がギターでもベースでもピアノでも、伴奏付けること」
「えー、だって今楽器持ってないもん」

直人は不服そうに頬を膨らませた。

「私だって直人が楽器を弾くとこ、見たいし聴きたい。あと私、直人の歌声も好きよ」
「え、俺?」
「この前、車の中で歌ってた」
「わかった。じゃあ順番で。初めは紗織の歌から」
「ずるーい!」
そう言うと、直人は笑った。

あ、笑った。
良かった、と思った。

少し走り進んだ時に直人が「あ、いいもの見つけた」と言った。
「なに?」
「モール」

右方向にショッピングモールが見えた。
「楽器屋、入ってないかな。ちょっと寄ってみよう」

ハンドルを切ってモールの地下駐車場へ吸い込まれて行った。

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#11 へ  つづく


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