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【連載コラボ小説】夢の終わり 旅の始まり #4

メッセージの内容を確認すると、いつものように一言だけ、素っ気なく書かれていた。

弾かせてもらえよ

今年の夏。
ワルシャワの、ちょっといい店のディナーに連れて行ってもらった時も、店内にあったグランドピアノを見て父が店員に頼み、半ば強引に「弾いてこいよ」と言われた。

父の、ちょっとドヤ顔でニヤリと浮かべた笑みを思い出す。

僕は立ち上がり、ピアノの前に進んだ。

椅子に座り何を弾こうか少し考え、ショパンの『ワルツ第6番 変ニ長調 作品64-1』、通称 "子犬のワルツ" に決めた。短めで中級レベルくらいの曲で反応を試そうと思った。
まぁ上手ですね。そんなとこだろうと。

ところが。

「…なんて軽やかな指の動きなんだ…。素人ではない気がするけど、本当に?」

透さんにそう言われる。

「僕は本当に素人です」
「ね、良かったら他にも聴かせてくれないかしら」

彩子さんも目を輝かせて言った。

「そうしたら…お願いがあるんですけど」
「何かしら?」

僕はスマホを出して彩子さんに差し出した。

「厚かましいんですけど、僕がこれから弾くところを撮ってもらえませんか? 本気出して弾くので」

彩子さんは一瞬キョトンとしたが、すぐに「お安い御用よ」と言ってスマホを受け取ってくれた。

僕は目を閉じて鍵盤に手を置き、一度だけ深呼吸する。
そして鼻からスッと短く息を吸い、イントロに魂を吹き込んだ。
同じくショパンの『英雄ポロネーズ』だ。

楽譜に忠実に、テンポは速すぎず遅すぎず、たおやかに流れなければならない。
英雄の邁進は変に溜め込んだり勿体ぶってリズムを乱してはならない。

この曲は僕の中で最も特別な1曲となった。
目を閉じると夏のワルシャワのワジェンキ公園の緑、空の青、陽の光、そして芝生に寝転び目を閉じて聴き入る人々、そして父の姿が鮮やかに甦る。

軽やかなシーンでは公園に吹く風、揺れる花を。
勇ましいシーンではワルシャワの青空、広々とした通り沿いに鎮座する、過酷な運命を見つめてきた建物を思い浮かべた。

眩しく煌めくあの空間に、僕の居場所が入れ替わる。

それだけで感極まってしまいそうになる。
永遠にとどまって欲しかったあの瞬間がありありと甦るのに、それはもう遠い彼方へ、急加速で過去へと押し流されていく。

『お前がこの地で弾いたらどんなかな、と想像したことはあったんだ』

父がそう言った。僕はそれを現実のものとした。
あの時父は満足げに目を細めて、弾き終えた僕に拍手をくれた。

その場面を何度も繰り返したくて、自分の中で時を巻き戻したくて、思い出したい時は決まってこの曲を弾くようになった。

ペダルから足を話してフィニッシュを迎えると、録画を終えた彩子さんがスマホを下ろした後、少し茫然としていた。

少し遅れて透さんが拍手をくれ、カウンターの向こうで洗い物をしていたマスターもいつの間にかテーブルの方へ出てきて、拍手をくれた。

僕は礼を言って彩子さんからスマホを受け取り、ファイルがクラウドに上がったのを確認してからアクセスのURLを父に送った。
『弾かせてもらったよ』とメッセージを添えて。

「素晴らしいわ…なんて豊かな音色なのかしら。柔らかなのに悠々としていて。堂々した "英雄" だったわ。素晴らしい表現力よ」
「いやいや…さっき僕が弾いた曲を "こんな難しいの弾けない" なんて言っていたけれど、この曲だって超有名曲でありがながら難易度はとても高い曲だからね。相当なものだよ。音の発音もものすごくしっかりしている。テンポのキープも完璧だった。やはり素人の指使いじゃないよね」

彩子さんと透さんがそれぞれ称賛をくれた。

「ショパンがお好きなのね?」
「はい…好きです。今年の夏、ワルシャワに行ったこともあって、今ちょっとマイブームになってるかもしれません」
「へぇ、ワルシャワに! そこまでお好きなのね」
「あ、いえ。自分で好き好んでいったわけではなく、呼んでもらったんです」
「あら、素敵じゃない。現地にお知り合いが?」

そこで僕の手の中のスマホがまた1回だけ振動する。
父からの返信だ。

動画観たよ。オーディエンスの反応はどうだ?

いつもこんなに早くレスが来ることないのに。

「どうしました? 大丈夫?」
「あ、はい…父からでした」
「あら、お父様から」
「ワルシャワに呼んでくれたのは父なんです。父は今ベルリンに住んでいて、それで」
「…そうだったの。単身赴任か何か?」
「いえ…僕は非嫡出子なんです。一緒に暮らしたことはありません。父とは家族になったこともありません」
「えっ…」

変なことを口走ったなと思った。そんなことまで話す必要はないのに。
今このスマホに入ったメッセージのせいだ。

彩子さんは透さんと目を見合わせた。

「ね…あなた、お名前はなんて?」
「あ、川嶋稜央りょう、といいます」
「川嶋さん…ごめんなさいね、お名前聞いちゃって。私は彩子さいこといいます。彼は私の夫でとおると言います。なんかちょっと…川嶋さんに縁みたいなものを感じちゃって」
「縁?」
「僕は非摘出子ではないけれど、3歳の時に両親が離婚してから父はカナダに渡って、以降もアメリカでずっと暮らしていたものだから、父とはずっと離れ離れでね。つい最近まで」
「えっ、そうだったんですか…」

透さんの僕を見る目が急激に変わった、気がした。薄いヴェールが1枚剥がれたような、そんな感じ。

「僕たちの結婚を機に連絡を取ったんだ。それまではずっと絶縁状態。僕は自由奔放な父を許せなくてね。40数年ぶりだったかな」
「40数年…透さん、おいつくなんですか」
「もうすぐ46です」
「えっ…僕の父と同い年かもしれないです…」
「あら、お父様、お若いのね」
「僕は父が二十歳の時の子です。母もですけど…二人は高校の同級生で。それで父は母を妊娠させておいていなくなっちゃったんです。厳密に言うと母が妊娠したことを知らずに別れてしまって、母が黙って僕を産んだっていう顛末なんですけど」

2人は面食らったように僕の話を聞いていた。

「母からは父の存在はずっと聞かされてなかったんですけど、僕が高校2年の時、ひょんなことから知ることになって…その時僕が抱いた感情は、人生最大の怒りと憎しみと恨みでした。母がどれだけ父のことを恋しく思って、女手一つで貧乏な中、僕を育ててきたことを露も知らずにのうのうと生きて…、しかも父には既に家庭を持っていて、東京で裕福に暮らしているんですから。それが本当に許せなかった。だから僕…ずっと父のことを恨んでいたんです」

僕はなぜこんなことをペラペラとしゃべっているのだろう。透さんも彩子さんも眉を下げて何も言えず、黙っている。

「それで色んなことがあって、本当に色んなことがあって、僕が二十歳の時に生まれて初めて父と対峙したんです。父にとっても寝耳に水の話ですから、もう本当に最悪の状態でした。お互い身も心もボロボロの状態になりました。挙句の果てには父は生死をさまようことになってしまって…僕のせいで。僕が父に "お前の人生を滅茶苦茶にしてやる" と言ったばっかりに、父は…」

僕が言葉に詰まると、透さんが肩に手を置いてくれた。ふわりと男性的な香りが舞う。
彩子さんは「大変なことがあったのね。つらかったのね」と言ってくれた。

「幸い父は一命をとりとめたんですが、僕は父がそういう状態になったことがすごくショックで、僕は何を望んでいたのだろうかって。何がしたくてここまで情熱をかけて父を探し出して、そして今僕は何をやってるんだって、虚しくなって…そして父が命を落とさなかったことが本当に嬉しくて安心して…」

彩子さんがハンカチを差し出してくれた。いつの間にか僕は涙を流しながら話していた。
透さんが言う。

「でも今は…連絡を取り合えるようになったんだね。ワルシャワに招待してくれたと、話していたものね」

「父に言われたんです。俺はお前を息子とは認めない、名前で呼ぶこともない、二度と俺の前に現れるな、って。でも日が経って父と母が連絡を取り合うようになっていて、その流れで僕にも…父からワルシャワへの招待状が届いたのが今年の始めくらいで」

「お父様にも何かしらの心境の変化があったのね…何があったのかしら」

「今まで目を逸らしていたことに向き合う、と言ってました」

再び透さんと彩子さんは目を見合わせた。

「何だか僕と親父との話を聞いているようだな…」
「父と息子ってやっぱり…同性って強い絆があるものなのね…それにしてもすごい偶然ね。一期一会と言うけれど…」

僕はスマホの画面の父からのメッセージを眺めた。今も確かに空の向こうで、息づいている。

「川嶋さん自身はもうお父様へのわだかまりはなくなったの?」
「ないです…。むしろ僕が父を守ってやりたくなって…なんか危なっかしんです。発達障がいの家系だって言ってたんですけど…なんか時折イッちゃう時があるんです。感情の振り幅が大きくなるっていうか。プツっと切れちゃうっていうか…。あまり頻繁ではないようなんですが」

透さんと彩子さんはまた顔を見合わせ、さっきよりも真剣な顔をして僕を見た。




#5へつづく

Information

このお話はmay_citrusさんのご許可をいただき、may_citrusさんの作品『ピアノを拭く人』の人物が登場して絡んでいきます。

発達障がいという共通のキーワードからコラボレーションを思いつきました。
may_citrusさん、ありがとうございます。

そして下記拙作の後日譚となっています。

ワルシャワの夢から覚め、父の言葉をきっかけに稜央は旅に出る。
Our life is journey.

TOP画像は奇数回ではモンテネグロ共和国・コトルという城壁の街の、
偶数回ではウズベキスタン共和国・サマルカンドのレギスタン広場の、それぞれの宵の口の景色を載せています。共に私が訪れた世界遺産です。

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