【連載小説】あおい みどり #6
~翠
梅雨が明けると、うだるような暑さの日が続いた。
2週に1度のカウンセリングはこの頃から週に1度受けられるようになった。
毎週その日が訪れるようになると、その前日は異様に緊張した。
実際に南條と話している時はそうでもないのに、明日その日を迎えると思うと、待ち遠しくて今すぐ話がしたいという焦燥感と、出来ればずっとその時が来て欲しくないという相反する気持ちがぐるぐる渦巻く。
何だろう、この身体の中で起こっている変化は、何と言えばよいのだろう。
*
ハーブティーは適度なアイスティーとなって提供されるようになった。蜂蜜とカモミールの、いつものお茶。南條も一緒になって飲む。カウンセリング前のティータイムが常となっていた。
南條はたまに髪がボサボサの時があって、相変わらず野暮ったい。その日着ていたシャツは水玉模様かと思ったら、小さなドラえもんだった。思わず吹き出して突っ込んだら南條は「クライエントでドラえもんが大好きな子がいて、プレゼントでもらったんです」と照れながら答えた。
私の過敏な性質ゆえ、他の人が気づくか気づかないかわからないが、南條はほのかな良い匂いを漂わせていた。
小学生の頃、図書館に寄った帰りに漂っていた匂いに似ている。その時の夕暮れの空の色まで思い出せる。懐かしくて、でもはっきりと形容できない、そんな匂い。もしかしたら人工的な香料ではないかもしれないと思った。
南條は認知行動療法などを用いて、根本的な問題に向き合う前にまず自分自身の受け止め方を変えて土台を作り、それから根本問題に向き合っていくステップを踏んでいきましょう、と歪んでいる私の認知を少しづつ変えていくカウンセリングを行った。
自信のなさ、自己肯定感の低さ、他人にどう思われているか気になって仕方がないことへの対処。チャンクアップ・チャンクダウン、スライドアウト…突き詰めてしまう考えをボヤかしたり、逆に曖昧に済ませていた部分を掘り下げて深層を覗いてみたり…色々な手法を用いた。新たな発見もあって、楽しかった。
いつしか私は、南條の喜ぶ顔が見たくて、様々なワークを真剣に取り組むようになっていた。
職場での出来事に対してどう感じ、教わった手法でどう認知を変えたかノートにまとめた。
あるいは憶えている範囲で蒼と交わした会話の内容をメモするようにし、それを南條に見せた。
南條は「蒼さんにも言いましたが、この先蒼さんとうまく共存していけるように、良好な関係を築いて行きましょう。お2人の様子を伺っていると、比較的スムーズに運ぶと思います」と言った。
「共存って、ずっとアイツと一緒なんですか」
南條はちょっと笑って「嫌ですか」と聞いた。
「わからないです。だっていない方が普通じゃないですか」
「普通がいいですか、やっぱり」
「…」
南條はメモを取る手を止め、ペンを静かに置いた。
彼の手から離れるペンと、彼の手をじっと見つめた。男性的なゴツゴツさも、女性的な線の細さもなく、逆に言えば両方あり、やはり中性的なのだ。
なぜだかペンが羨ましい、という気持ちが湧き起こって驚いた。
「蒼さんとの関係がうまく構築できると、翠さんも蒼さんの記憶を共有出来るようになるかもしれません。これまでそう言ったケースが数多くあるのです。そうすれば今よりもずっと過ごしやすくなるはずです。今は記憶が飛ぶことの不安も強いでしょう」
「はい」
「蒼さんは口も悪いし、少々やんちゃなところもありますが、翠さんのお兄さんのようでもあるし、彼もきっとそう思っていますよ」
「蒼がよく言います。"翠の部屋汚い" って。それで気づくと部屋が片付いているから、蒼が片付けてくれてるんだなって」
南條は私の話を聞いて愉快そうに笑った。
心がぎゅっとなったかと思うと、またアラートが鳴り響く。
"男には気をつけて。怪我するんだからね"
*
ここまでは、比較的順調だった。
けれど8月に入ると、私は上司からあるイベント開催のリーダーに任命され、思った以上のタスクが積み重なり、カウンセリングにしばらく通えなくなってしまった。
そうして南條と会話が出来ないまま、身体を蒼に明け渡したー。
~蒼
翠が南條医師の元で受けてきたカウンセリングの内容は、その日の入浴後に映画館のスクリーンで映像を楽しむように知ることが出来た。
俺が南條医師の前に姿を現したのはまだ一度だけ…翠のブレーカーが落ちた時だけだった。
本気で彼の前でシャワーでも浴びないといけないのか、と焦る。
どうにか自分の意思で入れ替わることは出来ないものだろうか。そんなことをしばらく考えていた。
*
9月のある日。
翠はここしばらく職場で強いストレスを抱えていた。
まぁ普通の人間でも大人数をまとめるリーダーというのは容易ではないが、翠の場合は自虐的なところもあるから、メンバーが余計に不安や不満に陥ったりする。
残業も増え、南條医師のカウンセリングも2~3週間すっ飛ばしてる。翠なりに教わったワークは取り組んでいたものの、周囲の不満や陰口の辛さが勝ったようだ。
「なぁ翠、先生のとこ行けよ」
『…そんな急に予約取れないから』
「緊急時は診察時間外でもいいって言ってくれてただろ? 今って緊急時だよな。吐き出せよ、気持ちを」
『…』
「なぁ」
『…蒼が会いたいだけなんじゃないの…』
「えっ?」
『…』
それが出来るならとっくにやってるよ。俺は思った。
でも俺たちはまだ自分の意思で交代が出来ていない。どうすりゃいいんだ。
しかし。
どういう力が働いたのかわからないが、その日から翠が戻ってこなくなった。
*
朝を迎えてもまだ "俺" でいる自分に、さてどうしたもんか、と腕を組んだ。
『蒼は私を助けてくれるために現れたんでしょ? 職場でもうまくやってくれない?』
翠が暗い部屋の隅っこで膝を抱えながらそんなことを言ってくる。
あ、この場合の『暗い部屋』っていうのは、俺たちの頭の中にある部屋のことで、学生寮みたいな狭い仕切りの個室の中に、普段は人格が潜んでいるとイメージしてもらえたらいいかと。
「他力本願だな、翠」
『こういう時に助けてくれるものなんじゃないの?』
「俺はお前の会社の社員じゃない」
『姿は私なんだから、私として上手いことやってよ。お手並み拝見よ』
「お前、何偉そうなこと言ってるんだよ!?」
もう翠は答えない。あまりにも呆れて大きなため息を付いたが、階下から翠の母親が「翠、遅刻するわよ!」と声を張り上げている。まったく、学生扱いかよ。
そうだ。翠の母親は翠のことをいつまでも『子供』だと思ってるんだ。大人になるってのはどいういう事かを知らず、翠もまた本当は大人になりたいのに、なる事を許されない。
仕方無しに適当に服を着け、階下へ降りた。目玉焼きとトーストの朝食が食卓の上に載っている。
"朝からこんなに食えるかよ…"
思わず怪訝な顔を翠の母親に向けた時、彼女も俺に違和感を感じたらしい。
「翠…どうしたの? そんな怖い顔して」
やっぱり、顔つき変わるんだな。でも俺のこと "翠" だと思っている。面白いじゃないか。
「今日はちょっと食欲が無いんでね。じゃ、行ってきます」
足早に玄関を出る俺の背後で母親が何か言ったが無視をした。
まばゆい朝の日差しの中を雑踏に紛れ込む。朝のひんやりとした空気が、まさに生まれたての空気を吸うかのようだった。スリリングだ。
「翠、何から何までナビゲートしてくれないと、俺なんもわかんないからな。よろしく頼むよ」
*
「里中さん…? 体調は大丈夫?」
上司と思しき男が恐る恐ると言った感じで話し掛けてきた。
「はい」
「何だかすごく疲れているみたいだから、無理しなくていいよ」
俺の表情にこいつも違和感を覚えたのだろう。"疲れている" なんて形容しやがって。
「無理しなかったら、誰かが代わりに取りまとめてくれるんですかね?」
「まぁ…どうしてもであれば応急処置的には出来るけど…その辺りは引き継ぎがきちんと出来るように里中さんも手を回しておいてくれないと…」
俺は舌打ちし、言い放った。
「まぁ別に、適当にやっておきます。本番さえうまく行けばいいんでしょ。代役、いいっすよ。やります、どうにかこうにか」
上司は目を丸くして口をパクパクさせたので、俺は可笑しくて吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
*
帰宅途中、あちこちの家々から夕餉の匂いが立ち込めている。流石にぐぅと腹が鳴った。あぁ、でもあの家で母親の飯を食うのは気が重いな。どこかで丼飯でも食って帰るか…。
駅から少し歩いたところにある牛丼屋に入る前に、翠に話し掛ける。
「よぉ翠。家で飯食いたくないから、ちょっと寄ってくぞ」
『家に帰れば晩ごはんあるんだから、余計なお金使わないでくれる?』
「いいじゃないか。嫌なんだよ家族の前で飯食うの」
『だったらせめて私のふりして "いらない" って連絡してよ。無断だと後で色々言ってくるから…』
「わかったわかった」
俺は仕方なしに家に電話を入れた。母親がキーキーと何か言っているのを途中で切った。翠はその応対に文句を言ったが、それも無視した。
カウンターの隅に座り注文を済ませる。
しかし翠が言うようにこれから毎日外食ってのもキツイか…。
「それよりどうだ翠。仕事なんてこんな風に適当にやっておけばいいんだぞ」
今日の職場での振る舞いを翠に話した。受け止め過ぎず、何でもチームメンバーに任せた。さばさばと。チームメンバーも呆気にとられた顔をしていて、爽快だったぞ、と。
『まぁ…乗り切ってくれたなら、今日のところは助かった…』
翠は相変わらず、交代中の俺の実際の行動は把握できないらしかった。ただ俺が訊いたことに答えるだけ。つまり、目隠し状態なわけだ。
「で、明日は戻るつもりなの?」
『…』
「なぁ、これって翠の意思で引っ込んでんの? どういうメカニズムになってんだよ?」
『わからない…でも身体が動かない感じなの。鉛みたい』
俺はフーっとため息を付いて、運ばれてきたキムチ納豆丼をかき込んだ。
『臭いものの組み合わせはいいんだ、蒼』
「なんだよ、両方とも旨いだろ」
『別にいいけど』
帰りの道すがらも俺たちの会話は続いた。翠は言う。
『予約取って南條先生のとこ、行けば。蒼』
俺は黙って考えた。
『先生に会いたいんでしょ』
「お前、俺のことどこまでわかってるの?」
『あんたの感情は、なんか感じるのよ。先生と話している時、見えないし記憶もないけど嬉しそうにしてるの、わかるの』
「俺、アイツには一目置いてるからな」
俺はちょっと誤魔化した。
一目どころじゃない。
そうだ。これは思わぬチャンスだ。
#7へつづく