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食事と音楽と男と女 #3

あの日以来の店で顔を合わせた時は、さすがに少し照れた。佐橋さんもそうだったと思う。

カウンターについた時、私は相当ぎこちない笑顔だったのだろう。
佐橋さんはそんな私の顔がよほどおかしかったのか、プッと吹き出した。

「お疲れ様です。いつものでいいですか?」
「あ、はい」

いつもみたいにしっかり食べられる気がしない。
緊張してる。
恋っていくつになっても、変わらない身体の反応がある。

最初のグラスはいつもスパークリングだけど、2杯目は食べるものによって赤だったり白だったり。ロゼはあまり好みじゃなかった。

その日はお魚の前菜にしたので白。
カウンター越しに渡してくる事が多い佐橋さんだったが、この日はわざわざ出てきて、私の右手側からグラスを置いた。

小さなメモと一緒に。

* * * * * * * * * *

店を出た後、メモに書かれている連絡先にメッセージを入れる。
まだ仕事中だからだと思うけど、すぐに既読は付かなかった。

いつものように、家に向かって歩き出す。

10分ほど経ってから、返信があった。

メッセージありがとうございます。無事家に着きました?

歩くと30分はかかるので、私は『まだ半分も来てません 笑』と返した。
すぐに『そっか 笑』と返事が来た。

まだお仕事中ですよね? サボってると怒られますよ

そう送ると困り顔のスタンプが送られてきた。

再び歩き出す。
浮かれているな、私は。

始まりはいつだって誰だって浮かれて、何でも楽しいって思うものだ。

いつかあの腕に抱き締められる妄想が、既に始まっている。

家に着いてシャワーを浴びて、ストレッチをしている時に、メッセージが来た。

今、終わりました。ちゃんと。

”ちゃんと” という言葉が可愛いな、と思った。
時刻は23時になろうとしている。昼間も仕事しているのに、遅くまで大変だな、と思う。

お疲れさまです。家、近いんでしたっけ。
10分もかからないくらいのとこですよ。

車で送ってくれたあの日は、本当にわざわざ私の家まで車を出してくれたのか。

私は次に何を送ったらよいか、ためらった。送るべきは、次に2人で会う約束なのだが、どう切り出そうか。

そうしているうちに通話の着信が。

「は、はい」
『ごめんなさい。歩きながらだと文字打つのが面倒で、電話にしました』
道路沿いを歩いているのか、車の通る音が聞こえてくる。

「確かに、そうですよね。歩きスマホは良くないです」

彼はちょっと笑ってから、言った。
『今週の土曜日って、空いてますか? 夕方くらいからになってしまうんですけど…』

来た。

「今週の土曜、ですか。はい、空いてます」

確認していないけれど、最優先事項のはず。

私は、始まりのタイミングでの駆け引きが苦手だ。どんどん従うし、言いなりになるし、そしてどんどん攻める。

それが仇となって失敗することも今まで何度もあったのだが、学ばない。

恋は本能が勝つ。からだと思ってる。

彼は、土曜だけど日中は仕事をすると話した。平日遅くまで作業しない分、土曜日の日中に調整することが多々あるそうだ。だから夕方くらいからになってしまうけど、良かったらドライブか、それとも飲みに行くかしませんか、と提案してきた。

私はちょっと考えて…どちらも魅力的だった。いえ、正直どちらでも良かった。

ドライブだとしたら、車、持ってるんですか? と訊いてみた。都内の一人暮らしで車を持つなんてちょっと驚きだったから。
しかし「カーシェアリングを使ってる』との回答。なるほど。

「じゃあ、今回はドライブコースにします。次は、飲みに行きましょう」

さりげなく、その次を示唆する。こんな風にグイグイ行く女性は可愛げがないだろうな、と思いつつ。
でも彼は『そうしましょう』と答えてくれた。
社交辞令かもしれないけど。

『家に着きました。じゃあ土曜日、こちらの作業のキリがついたら連絡します。大体17時位を目安に。近くまで迎えに行きます。どこか行きたい所、ありますか?』

ない。
というか、どこでもいい。

無難な回答は野暮だな、と思ってしまうと何と言っていいかわからなくなってしまう。

『視界の広いところがいいかな…漠然としてますね」

私がそう言うと佐橋さんは笑って『了解』と言ってくれた。

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土曜日は一度14時くらいにメッセージが来て、17時に迎えに行くでいいですか?と尋ねてきた。
大丈夫です、と返信した。

あまり気合いをいれた格好をしても恥ずかしいが、正直悩む。
鏡の前で30分は悩む。
何を着たら、私が一番引き立つか?
自分の好みが自分を引き立たせることに一致するわけではないのだ。

17時少し前に電話が鳴り、もう近くまで来ているという。すぐに出ますと答えて部屋を出た。
ゴールドの揺れるピアスをつけ、耳たぶの後ろにほんの少しパフュームを付ける。

夕方とはいえ、夏の日はまだ長い。その日は天気が良かった。黄昏にはまだ遠い空を見上げると、夏雲が高く積み上がっているのが見えた。

通りに出ると、佐橋さんが車から降りて待っていたので、すぐにわかった。
いくつかボタンを外した白シャツに藍の濃いジーンズ姿。
普通なのだけど、普通をカッコよく着こなすのは難しい。
男性なのに、ウエストのラインがセクシーだな、と思う。ちょっと妬ける。

彼は私を見ると、小さく会釈をした。私も同じように会釈する。
「お疲れさまです」
近づいてそう声をかけると、少し照れたように見えた。気のせいかな。

2回目の助手席。まだまだ、慣れない。緊張。
腕が近いから。そうなのかな。それだけじゃないけど。

車に乗り込み、前回のように彼はスマホを操作した。
渋過ぎない、優しいボーカルジャズが流れ出す。

「いいですね、この曲も。佐橋さんの好みですか?」
「うん…これはポーランドのBardotka Trioっていう女性3人組の。他にもいろんなアーティスト混ぜてプレイリスト作ってて、作業BGMにしたり、ドライブで流したり」
「ポーランドのアーティストなんて、どうやって知るんですか?」
「これはたまたま友達がSNSで "好きな歌なんだ” って呟いていたのを見て知ったんだ。この歌、ポーランド語だからいい。Nie trzeba słów. 意味は“言葉はいらない”」
「ポーランド語もわかるんですか?」
「いや、わからない」
彼はそう言って笑った。

どういう音楽が好きだからいい人とか悪い人なんて言えないけれど、少なくとも私にはいい人。と思う。

車は緩やかに走り出した。

「カーシェアリングって、いいですか?」
「うん、色んなクルマに気軽に乗れるからね」
「クルマ、お好きなんですか?」
「詳しくはないけど。運転が好きなんだ。たまにこうやって土曜日の夕方とか、走ったりするんだ。気分転換にね」

そして「酒飲めなくなるのがキズだけど」と笑った。

「ドライブは一人で?」と訊くと、一瞬間を置いて…何か言い淀んだようにも思ったけど…「うん、一人で。気楽だし」と答えた。

車は首都高速に乗った。湾岸線へ入っていく。東京の湾岸エリアは好きだ。
ハンドルを握る彼の腕を、横顔を、時折眺めた。
無精髭は無精ではなく、ちゃんと手入れしているんだろうな、とか考えたり。
そんな風にずっと見つめていたいけど、さすがにそれは、ね。

「じゃあ、日曜日は何をしてるんですか?」
「日曜はね、寝てる。ひたすら。システム障害とかで叩き起こされない限りは」
「それ、正しい休日の過ごし方ですよ」

そう言うと彼はまた、笑う。照れたように。目は真っ直ぐ前を見たまま。高速を運転中だから当たり前だけど。

そんな横顔がいいな、と思う。どんどん堕ちていくのが、わかる。

「紗織さんは休みの日は何をしてるの?」
「私ですか? 洗濯して掃除して…。あとは買い物したり友だちと会ったり…ありきたりです」
「それも正しいじゃない。平日はなかなかゆっくりと出来ないでしょう」

ふと、飛行機が低く飛んで着るのが目に入る。
大井南で高速を降りた。
視界の広い所、とは、たぶん空港の近くなんだと思った。

配送センターや倉庫などが立ち並ぶエリアを抜け、海沿いへ出て、駐車スペースに車を停める。
「ここからちょっと歩きましょう」
促されて、車を降りた。

轟音と共に、低い上空を飛行機が滑り降りていく。
「すごい。ここはよくいらっしゃるんですか?」
「うん。旅が好きだから、飛行機も好きで」
そう言って、目の前の公園を横切っていく。

そこは “つばさ公園” という名の、羽田空港を離着陸する飛行機を眺めるためにあるような公園だった。

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#4 へ  つづく

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