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【連載小説】あなたに出逢いたかった #2

7月半ば、梨沙は約1年間のドイツ留学から帰国した。

今年は東京も早々に梅雨が明け、既にミンミン蝉があちこちから鳴き響き暑さをかき立てる。
そんなやかましくて蒸しっとした日本の夏に、梨沙は既に嫌気が差していた。やっぱりこっちよりベルリンで過ごすのがいい。

ただこの湿度のおかけで東や東南アジア人の肌は潤いが保たれて若く見えるのだろうとも思う。ベルリン滞在中はとにかく乾燥対策が大変だった。夏場でも気を抜くとすぐに粉を吹いた。

また、ずっとベルリンにいたら良かったかというと、そうではない理由がある。

梨沙の最愛の人が、日本で待っているから。

高校は既に夏休みに突入していたが、帰国報告で学校を訪れると梨沙のように留学から戻ってきた学生が多く訪れていた。グローバルな人材を育成するこの学園では、9月スタートのクラスもある。

1年も留学すると国語力が落ちているため、学力のバランスチェックテストを受けた。
更に2年生は大学受験を視野に入れるため、併せて進路相談を受け編入先のクラスを決める。ドイツの大学に行くことも考えたが、家族会議の結果、一旦は日本の大学に進むことにした。

絵を描くことが得意な梨沙は美大への進学の意向を伝えると、幸いなことに必須の外国語試験にドイツ語を選択できる大学があったので、迷わずそこにした。あとは国語、地歴、数学、理科から2教科2科目選択する必要がある。梨沙は勉強は出来る方だが、得意・不得意の差がはっきりと開いていた。日本史は昔から致命的にダメだが世界史でバランスは取れる。国語は今後の訓練次第。理科は物理以外は好成績だ。

こうしてテストと面談を経て、その場でクラスを言い渡される。2-E…帰国子女で構成されるクラスのうちでも成績優秀者が集まるクラスらしい。しかし顔ぶれなどはわからず、ピンと来ない。

教室を出て、廊下の窓から見上げた真夏の空に、勢いよく突き上がる雲を見て梨沙は "まぁ学校なんてどうでもいいんだけど" と、ぼんやり思った。

パパ、クラス決まった。2-Eだって。そんなこと言われたってわかんないよね

まだ仕事中の父にヴォイスメッセージを送り、フフフと微笑む。

ね、今日は何時頃帰ってくるの? 今夜こそパパと一緒に晩ご飯食べたい。絶対早く帰ってきて。お願いだよ!?


一方的に送信した後の梨沙は急に活き活きと駆け出し、学校を後にした。


梨沙はファザコンである。実の父に "恋" している。

父の遼太郎が38歳の時の子供のため、特に若くて恋愛対象に見えてもおかしくない…わけではない。遼太郎の髪には既に白いものも混じっているし、肌だって若い頃の張りは失い、年相応の皺もあれば疲れも感じる。

しかし遼太郎という男は、優しさと、時に狂気を纏う男である。それはいくつになっても変わらない。女性にとっても男性にとっても、その危うさも含めて非常に魅力的な男である。

クラスメイトたちの父親を見かける機会があった時、子供ながらに自分の父との違いに驚いた。お腹が出ていたり、頭頂部がやや頼りなかったり…。
それほど背は高くないが体躯が良く、スッと伸びた背筋で堂々とした自分の父親が、どこをどう見たって一番カッコ良かったし、世界一素敵な人だ、といつも思っていた。

歳を重ねるにつれ、実の父に恋する想いは痛々しいほど突き進んでいく。
秘密の恋ほど、そして叶わぬ恋ほど激しく燃え上がるもの。相手が肉親なのに。


ただ立っている姿も、歩いている姿も、飲んだり食べたりしている姿も大好き。
あくびしている顔も、寝顔も、目覚めた時の寝ぼけ眼で髪をクシャクシャにしている姿も、全て愛しい。
肌に触れているシャツにさえ妬いてしまうから、こっそり盗み着たりする。

自分に向けてくれる笑顔、胸に顔を埋めた時の匂い。
この匂いはまるで臍帯のように、生まれる前から繋がっていたんだと思わせる。
だから、離れられない。


世界は小さく、例え完全に閉ざされたとしても、ここに全てがあると思える。



梨沙は夢見ていた。

彼女はまだ16歳、間もなく17歳になる。遼太郎からは『まだ子供なんだから』と事あるごとに言われてきた。

だから早く大人になりたかった。

18歳になれば…ドイツだったら一緒にお酒が飲める。
そして18歳になったら…、蝶の羽根の内側に来てもらうの。

梨沙は抱いてはいけない夢を抱いていた。

『子供なんだから』の解釈を誤っていた。


「パパ、おかえりなさい!」

玄関で音がすれば、リビングにいようが自室にいようが梨沙はすっ飛んでいく。彼女の感覚はまるで遼太郎のために研ぎ澄まされているのか、と思うほど。無邪気な子供、そのままだ。

そうして飛び込んで抱きつき、彼の胸で大きく息を吸う。外の空気に混じって香る、梨沙の大好きな匂い。これは動物としての本能なのか、幼い頃からこの匂いを感じると深い安堵に包まれる。

留学を通してようやく父親離れできるかと期待した母・夏希だったが、帰国後は全く変わらない…むしろ拍車をかけている彼女の態度にがっかりした。

夏希は業を煮やして遼太郎にこぼす。

「ねぇ、梨沙はもうすぐ17になるのよ。いつまでも甘やかしていたら本当に…取り返しつかなくなるわよ。蓮だって恥ずかしがってるわ」

要は遼太郎の態度にもいい加減にしびれを切らしていたのだ。

「中学に上がった頃から思っていたけど…そろそろ本当に…」
「わかってるよ」

仕事の疲労も相まった重たい頭で遼太郎は考える。いつかどこかで、突き放さなければならない時が来るのはわかっている。
けれど梨沙は簡単には理解してくれない。下手すればまた暴走するかもしれない。
もう自傷したり死にたいということはないとは思うが…。

遼太郎は深いため息をついた。

夏希は夏希で、遼太郎の気持ちはわかるし、娘が発達障害を抱えているかもしれないと思ってからはその性質を理解して『普通の子にしようとしない』となるべく心がけようとしていた。

しかし夏希は『普通で』『優秀な』タイプだった。どちらかと言えば活発、どちらかと言えば社交的。万人に好かれなくとも嫌われることはない、当たり障りのない人間だ。弟の春彦なんて温厚で優しくて社交的で、誰からも愛されるタイプだ。そういうぬるい環境で育った。

だから感情的で極端な態度を見せる梨沙についていけないことも多かった。



蓮が自室にこもり夏希が入浴すると、梨沙は遼太郎の姿を探しに自分の部屋をそっと出る。リビングにいない時は書斎か寝室のドアをノックし、返事を待たずに開ける。

目が合うとすぐに胸に飛び込んでいく。むしろ襲いかかると言ってもいい。あちこちに噛み付き、シャツを捲り上げ鍛えられた胸や腹に鼻を寄せ、舐め、また噛む。まるで甘いお菓子を貪る幼子のよう、いや、獣の子そのものだ。

「梨沙、やめろ」

遼太郎が咎めてもお構いなし。強い力で頭を抑えられ、睨まれ叱られても、返って恍惚とした表情を浮かべる。

「お前…いい加減にしろよ…」
「いやだ。だって好きなんだもん」

けれどバスルームで物音がすると、梨沙はサッと身体を離し、名残惜しそうに部屋を出ていく。


遼太郎はベッドに仰向けに倒れ、天井を見上げる。

この "野獣" を、どうしたものか…。







#3へつづく

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