【連載小説】あなたに出逢いたかった #1
真夜中の花畑。暗闇の中に赤や白の花々が浮かび上がる。
ある男。
暗闇の花畑を歩く彼は、花に負けないほどの魅力的な香りを放っていた。
それに誘われるかのように、青い蝶がどこからか舞い現れる。
気づいた男が目を細め、不思議そうに蝶を眺める。
“私を捕まえて”
蝶はそう言い羽根を震わせるけれど、男の耳には届かない。
「こんな真夜中に、何故こんなところにいる?」
そっと右手を差し出すと、蝶がその手のひらにふわりと舞い降りる。
飛べないのか。弱っているのか。
男は花の上で手のひらを返した。けれど蝶は離れない。
俺を花と間違えるなよ。
男の瞳は刹那、冷たく光る。
*
ある少女。
花の散る姿が好き。
くだびれた様で地面に落ちる白木蓮。
川面にたゆたう桜の花びら。
首を垂れた向日葵。
心を奪われる。まるで私みたい。
咲いている姿が美しさの全てじゃない。
黄昏時の空は愛する人の色。
愛は何よりも美しいはずなのに。
彼女の愛は汚れていると言われる。
彼女は蝶になっても、輝く花には止まれない。
*
朽ちた花びらが踏まれていく。愛する人の靴で。
けれどそれすらも愛おしい。
あなたに会いたくて羽根を求めた。
でもあなたに辿り着けたなら、もう羽根なんていらない。
いっそのこと喰んで、ちぎって、自由を奪って。
あなたの剣で、私を貫いて。
そして籠の中に私を閉じ込めて。
それが私の幸せなの。
凍てつくような冷たい瞳と、触れたら溶けるほど熱い身体。
その両方で、私を壊して。
そして籠の中の私にどうか、触れて、バラバラにして、溶かして。
あなたに溶けてしまいたい。
*
白む空。
香りだけを残して男は去っていく。
蒼い風が吹いてもなお。
「川嶋、10月に横浜でジャズイベントやってるの、知ってるか?」
同僚でジャズバンド仲間の藤井が川嶋稜央に話しかけてきたのは、7月上旬、うだるような暑さが襲う水曜日の午後だった。今年は梅雨明けが早かった。
「横浜って、あの横浜? 日本一大きな中華街がある…」
「そうだよ。他に横浜があるか? ちょうど連休の時なんだ。街角ステージって言って、申し込めば割りと誰でも演奏出来るみたいだし、ジャムセッションもあちこちでやってるみたいなんだ。面白そうじゃない? 俺たちも楽器持って、旅行がてらちょっと行ってみないか?」
藤井はそう言って、ジャズイベントのサイトを稜央に見せた。
「お前のサックスはいいけど、俺もキーボード持ってくの? ちょっと大変だなぁ…。それにしても横浜ってまた…大遠征だね」
「俺、行ったことないんだよ横浜。あれ、でも川嶋はたまに国内旅行出掛けてたよな。行ったことある?」
「いや、横浜は…ないなぁ」
「まぁ、今月いっぱい考えておいてくれよ。3連休だし、可能なら金曜午後半休付けてゆっくり行きたいな。たまにはいいだろ」
「わかった…考えとく」
稜央は横浜について調べてみると、港や山手の旧居留地、更に中華街があると聞くと、ほとんど神戸みたいなもんだな、と思った。神戸なら何度か行ったことはある。
しかしもっと調べると、どこまでを横浜としたら良いものか、とにかく広かった。野球場もサッカー競技場も大規模コンサートホールも、動物園も水族館も果樹園も…何でもある。エリアとしては神戸の比ではなかった。
それと。
「横浜と東京ってまぁまぁ近いよな…」
前回父に会ったのはいつだっけか、と頭をよぎる。声のやり取りはたまにしているものの、実際に会うことはなかなか無い。
これを機に久々に会えるかな、と考える。それが出来るなら…出来ないとしても旅行がてらの遠征も面白いかもな、と思い、その日の夕方にはもう藤井にOKの返事を出した。
そういえば…。
あの娘はそろそろ帰国するのではないか、と思い出した。
昨年末彼女は『来年の夏、帰国するから』と話していた。それがつまり、今年の夏、今だ。
今から半年と少し前の、去年の12月。
旅先のベルリンで偶然出会った日本人女子高生、野島梨沙。
本当に偶然、初めて出会ったのに、彼女は稜央にとって他人ではなかった。
*
19時半。
仕事が終わり、稜央はしばしスマホを弄びながら電話をかけようか逡巡した。
手を止めしばらく悩んだのち、番号を押す。
3回呼び出して、出た。くぐもった声が聞こえてくる。仕事中なのかと問うと、大丈夫だ、何かあったのか? と問うてくる。
そう言われて、前回会話をしたのは正月、梨沙の一件で話して以来であることを思い出す。例え息子とは言え自分は正室の子ではないため、父とそうそう気軽にやり取りが出来るわけでもない。だから互いの電話は『何かあった時』となりがちだ。
10月に横浜でジャズイベントがあり、それに出てみようという話がバンド仲間で出たんだ、と伝える。稜央が関東に出るのは数年振り、父と会ったのはそれよりもっと前だったか…。
「…というわけで久しぶりにそっちに行くからさ。良かったら観に来てよ。連休だし」
誘う時、何故か緊張する。勇気を振り絞る必要がある。何故いつもこんなに緊張するのだろう。父親なのに。
父は笑って『まぁまだ予定がまだわからないけど、気に留めておく』と言った。
「…そういえば、彼女…娘はそろそろ帰ってくるんだっけ…」
稜央は妹と呼ぶか娘と呼ぶか迷い、娘を選択した。しかしその言葉に父は声のトーンを落とす。
『…もう帰ってきてるよ。気にしてるのか』
「いや…別に…。ちょっと思い出しただけ」
『無事に戻ってきたよ。お前のことは多分もう忘れてる』
そう言われて稜央は少しカチンと来た。
自分の手元には彼女のくれたベルリンベアのキーホルダーがあり、部屋には彼女の描いた自分のポートレイトがあるというのに。
それらも稜央が捨ててしまえば良かったのだろうが、そんなことはしなかった。出来なかったと言うべきか。
ベルリン中央駅で見せた彼女の涙、その後彼女から毎日のように送られてきたメッセージを思うと、半年で忘れるなんて随分じゃないか。
「まぁ…父さんはそれを望んでいたんだから」
『…とにかくもう梨沙のことは忘れてくれ』
わかった、と稜央はぶっきらぼうに答え、横浜の件はまた連絡すると言って電話を切った。
両腕を上げたベルリンベアが、稜央のスマホで揺れた。
#2へつづく
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