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【連載小説】Berlin, a girl, pretty savage ~Moment's Notice #17

メールの件がショックで、その日梨沙は全く口を利かなかった。家族の前ではひたすら泣くのを耐えた。
そうしてその夜、夏希から鍵を受け取り、遼太郎の部屋へ移った。

部屋のドアを開けるとバスルームからシャワーの音が聞こえてくる。同時にかすかな匂いをキャッチする。
懐かしくて、大好きで、心も身体も溶けそうになるのに、今は稜央から拒絶された哀しみで、気持ちがぐちゃぐちゃだった。

ルームライトは消され、ベッドサイドの灯りだけが点いている。梨沙が幼い頃から遼太郎のベッドルームは大抵そんな風に薄暗かった。
壁際のベッドの上には服が無造作に脱ぎ捨てられている。

畳んでおいてあげようかとシャツを手にしたところで慌てて離した。
が、再びそっと手に取り、顔を近づけ、くん、と鼻を鳴らす。そして抱き締める。

すると一気に抑えていた感情が溢れ出し、服を濡らさないように退けると、ベッドに突っ伏して号泣した。

確かに返信はしなくてもいいから、とは言った。
けれどあの日、彼が去った後、様子を窺いになのかわからないが、また戻って来てくれた。

そうして梨沙はハッとする。

そもそも、彼の身に何かあったのではないか?
連絡しないのではなく、連絡できないのではないか?
ちゃんと生きているのだろうか?

涙はぴたりと止まったが、激しい動悸が襲う。
考え過ぎだ。けれど。

気持ちを何かに集中しないと、取り乱してしまいそうだった。
呼吸が浅く速くなる。隅に追いやった遼太郎のシャツを手に取り、顔を埋めて必死で呼吸を整えようとした。
そしてそのシャツとズボンを丁寧に畳むことに気持ちを集中させようとした。が、上手くは畳めない。

次に梨沙は窓辺に向かい、窓に額を付けた。
外ではフーデットコートを羽織った観光客たちが白い息を吐きながら、相変わらずブランデンブルク門をバックに写真を撮っている。

どうしよう。稜央さんの身に何かあったら…。

胸を抑え何度も深呼吸していた時にバスルームのドアの開く音がし、弾かれるように振り向くと頭からバスタオルを被った遼太郎が顔を出した。

「なんだ、もう来てたのか」
「い、今さっき…部屋、移ってきたばかり」
「どうした? 顔色悪いぞ」
「あ…その…」

落ち着かないと。梨沙は自分に一生懸命言い聞かせる。
ただ、考え過ぎだよ、という気の紛らわせ方は出来ない。そう思い込んでしまったら、なかなか抜け出せない。

「服、畳んでおいてくれたのか。ありがとう」

バスタオルを被ったまま、遼太郎は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し口にした。

「あ…うん…」
「そういえば、Tatooはまだママに気づかれていないみたいだな」
「うん…何とか、誤魔化してる」
「いつバレるんだろうな。帰国後にしても」
「…」

遼太郎は何気ない会話に努めているようだが、いつものような態度が取れない梨沙はぎこちない。

「シャワーは?」
「あ、うん…か、借りるね…」

そう言って着替えを持ってバスルームに向かおうと遼太郎の脇を横切ろうとした時、不意に腕を摑まれた。

ハッとして見上げると、頬を大きな両手で挟まれる。

「梨沙…お前、本当に大丈夫か?」

心配そうに瞳を覗き込む遼太郎に、梨沙は震えながら言った。

「…何でもない…シャワー浴びるから…離して…」

頬の手を振り切り、まだ湿気の残るバスルームに入り扉を締めようとしたが、遼太郎は身体を割って入ると、洗面台の横に置かれているカミソリを取り上げた。

「念のため…これは外しておく」

梨沙は唇を噛み締め、遼太郎を押し出した。


胸に手を当て、再び深呼吸を繰り返した。鼓動が激しく打っているのは、稜央に対する気掛かりか、遼太郎が触れた手の感触のせいか。
それともまた自傷するかもしれないと思われたことか。あるいはその全部かもしれない。

服を脱ぎ、鏡に写った自分の顔を見つめ大きなため息をついた。そして青い蝶のTatooをなぞる。

稜央が現れて、気持ちのベクトルが遼太郎以外に向くと思ったのに。そうしたら喜んでくれると思ったのに。

遼太郎は反対し、稜央からは一度も返信が来ないまま、途絶えた。
連絡が取れなければ、そもそも生存もわからない。生きていたとしても、それは死んだも同じだ。
つまり希望を抱いた恋は死んだのだ。
どのみち、自分は完全に拒まれたのだ。

そしてこんな自分はまた自身を傷つけるかもしれない、と思われている。

哀しい。
私、情けない。

シャワーを出し、声が聞こえないようにして、再び梨沙は泣いた。

ルームウェアに着替えてバスルームを出ると、遼太郎は既に自分のベッドに入り、眉間に皺を寄せてスマホの画面を見ていた。

「パパ、何怖い顔しているの?」

その言葉にハッと顔をあげる。

「いや…ごめん。ちょっと…」
「蓮が…、パパが日本に帰ってから、ずっと忙しくてほとんど話ししていないって言ってた。ずっと怖い顔してるって」

そう言うと遼太郎は「あぁ…」と言って少し困り顔になった。

「ちょっと仕事が立て込んでいるんだ。先が見通せない状態が続いていて…」
「私のせい? だよね?」
「…どうしてお前のせいになる? 仕事なんだから梨沙は関係ない」
「でも…私の電話にはいつも出てくれるし、たまに遅いなって思うことはあったけど、私には変わりなく接してくれる」
「お前、急にママや蓮に気を遣うようになったんだな」

梨沙の瞳が一瞬怯えたように揺れる。

「…ママが言ってた。好きになる人が父親に似ることはおかしくないって。むしろある種の女の子は父親の影を求めて男の人を好きになる事があるって」

今度は遼太郎が怯む。

「パパは、パパに似た人を好きになったら後悔するって言ったよね。思い描いた人と違うから幻滅するだろう、って。矛盾してる。少なくとも、ママは女の人として私の気持ち、わかってくれてる」
「お前が求めているのは “父親似” じゃない」
「パパ…」
「お前が求めているのは俺であって父親似を求めているんじゃないんだよ。それが違いだ。矛盾なんかしてない」

そんなの屁理屈だ、と梨沙は思った。
じゃあこの先好きになる人も、きっと永遠に否定し続ける。

私は誰とも結ばれない。

「…誰かを好きになることは素晴らしいことだ。けれど…旅人のことは忘れろ。お前は幸せになれない」
「…どうして幸せになれないなんて言い切れるの?」
「何度も同じこと言わせるなよ」
「でも、それなら安心して。稜央さんにメッセージが届かなくなった。User Unknownだって。今まで送られていたのに。たぶんもう連絡は取れない」

遼太郎は一瞬、目を細めた。

「…そうか」
「一度も返事くれなかったから生きてるのかどうかもわからない。もしかしたら旅行中に事故にでもあったのかも。それでアカウント消えたのかも」
「それはないだろう。そうだとしてもアカウントはそんなにすぐに消えたりしない。まぁ、意図的に消されたんだろうな」

梨沙はキッと遼太郎を睨んだ。

「だとしたらパパはこれで安心だね。もう私のことを惑わす人はいなくなったから。その代わり、私はまたひとりぼっち。この先もずぅっと、ひとりぼっちだよ」
「ひとりぼっちなんかじゃないだろう」
「"俺がいる" とでも? 私の気持ちは拒むくせに」

梨沙は唇を噛み締め、乱暴にベッドに潜り込んだ。

「梨沙、不貞腐れるなよ」

梨沙はシーツに包まったまま顔を出そうともしない。遼太郎がベッドの縁に腰掛けると梨沙は「放っておいてよ」とぶっきらぼうに言った。

「最近薬…飲んでるのか?」
「…どっちの?」
「どっちもだよ」
「頓服は時々…睡眠薬はしばらく飲んでない。飲むと朝からずっと頭が重くてぼーっとしてつらいから」
「カウンセリングには通っているんだろう? もっと軽いのに変えてもらえばいいじゃないか」
「要らない。必要ない。眠りが浅いのは昔からだし、別に困ってない」
「頓服は? 最近どんな時に使ったんだ?」
「…」

頓服も本当は頼りたくなかった。本来は腕時計がお守りのはずだった。けれど返って遼太郎の存在を思い出すことになって寂しさが募った。
腕時計にすがって泣き続けることもあった。Schulz一家にはバレないように、学校帰りの、シュプレー川のほとりで。あるいは子供の頃住んでいた家の近所の、Tempelhoferの広大な公園の片隅で。

冬が近づくと、どんどん日が沈む時間が早くなる。暗さと寒さで余計に寂しさが増す。温もりが恋しくなる。

そうして寂しさがピークに達すると、足元がすくわれるような不安に襲われる。
だから冬になって暗く寒くなったら、我慢できずに頓服を飲む回数がやや増えた。

そんな中出会った、運命の出会いだと思った、彼。それなのに。

梨沙はシーツから顔を出そうともしないし、話もしてこないので遼太郎はため息をついてバスタオルをバスルームに戻し、ベッドサイドの灯りを消そうとした。

その時、梨沙がくるまっているシーツが震えていた。

「梨沙」

やはり返事はない。

「どうした?」

遼太郎がシーツをそっと剥がすと、梨沙は背中を丸め両腕を強く抱き締め、固く目を閉じていた。

「梨沙…」
「だめ…来ないで…」

このままでは稜央の面影はどんどん遼太郎に塗り替えられていく。

せっかく、ちゃんとした普通の人・・・・が現れてくれたというのに。
パパ、あなたを困らせないためなのに。

匂いをかいだら、温もりを感じたら、優しい声を聞いてしまったら、気持ちが戻ってしまうでしょ。
それはパパが一番困ることなんでしょ。絶対に駄目なことなんでしょ?

まるで両腕を反対方向に引っ張られているみたい。このままでは千切れてしまう。





#18へつづく

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