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【連載小説】あなたと、ワルシャワでみる夢は #12

ワルシャワへ、愛を込めて

コンサートが終わっても、稜央は立ち上がらずにいた。遼太郎は上半身を起こす。

「楽しめたか?」
「うん…十分すぎるほど」

周囲では帰る人もいればまだ残って余韻を楽しむ人もいる。
本当にのどかで、お穏やかだ。心が溶けそうになる。

「世界にはこんなところがあるんだって思った。国の首都なのに、こんなにのんびりしているもんなのか? 他の国を知っているわけではないけれど…」
「お前はまだ若いのだから、これからどんどん世界へ旅に出て行ったらいい。そしてその目で確かめたらいい。他の国はどうなのか」
「世界…か」

遼太郎は立ち上がり、尻についた草の葉を払った。

「晩飯はレストランを予約してあるんだが、まだ少し時間がある。場所は文化科学宮殿の裏手辺りだ。まぁせっかくポーランドに来たんだからな。忙しない日本の喧騒を忘れて、のんびり戻るとしよう」

振り返ってそう稜央に言った。

「レストラン…なんか何から何まで…」
「お前は招待客だからな。気にしなくていい。俺もワルシャワ最後の夜を楽しむとするよ」
「最後の夜…?」
「明日の午後には家族がベルリンから来る。そのまま車を借りて南ポーランドまでドライブだ」
「…」
「お前は明後日の午前中の便で帰国だったろ? 明日はフリーだ。母親や妹に土産でも買っていけ。結局今日は回ることが出来なかった旧市街の方に足を伸ばすとかな」

稜央は "次はいつ、どこで?" と咄嗟に思った。
が、口には出さなかった。

* * *

広大なワジェンキ公園をぐるりと散策し、バス通りへ出た。中心部へ戻る116番のバスに乗る。まだまだ夏の夕暮れといった明るさだが、間もなく19時になろうとしていた。

遼太郎は持っていたジャケットを稜央に渡した。

「これ、羽織っておけ」
「え、なんで?」
「今日の店は軽いドレスコードがある。Tシャツのままよりマシだろう」
「そんな高級な店なの?」
「別に高級な訳じゃない」

バスを降り少し歩いたところの、建物の3階にあるレストランに2人は入っていった。
遼太郎がレセプションで名前を告げると窓際より一列内側の席に通された。店の中央にグランドピアノが置かれている。

稜央が思わずピアノを見つめていると、遼太郎もそちらにチラリと目をやり、店員を呼んで何か耳打ちした。
そして稜央に向かって言った。

「弾いていいってよ」
「え?」
「今店員に、彼は日本の素晴らしいピアニストなんだ、と紹介した」
「何言ってんの!?」

遼太郎はニヤつきながら顎でピアノを指す。「いいから弾いてこいよ」

稜央はおずおずと立ち上がりピアノに近づいた。先程の店員が笑顔で何か言ったが、ポーランド語なのか聞き取れず顔をしかめると、英語とゼスチャーで「1曲だけなら」と言った。

稜央はピアノの前に座り深呼吸した。先程のワジェンキ公園のピアノコンサートの余韻がまだ残っている。だから曲は『英雄ポロネーズ』にした。
この曲なら遼太郎も好きだと言っていたから。

稜央は素直に、このワルシャワに敬意を示す気持ちで『英雄ポロネーズ』 を弾く。
先程のワジェンキ公園で感じた空、風が蘇ってくる。

遼太郎は目を細めて『英雄ポロネーズ』を弾く稜央を見つめていた。
いとも簡単に夢が叶うものだな、と。
いや、決して簡単ではなかったが。

弾き終えると、数組いた店の客も拍手をくれた。店員がポーランド語で「彼は日本のピアニストだそうだ」と紹介し、再度拍手が湧いた。

急に恥ずかしくなりいそいそと席に戻ると、遼太郎も立ち上がって拍手をくれた。

「めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど」
「いいじゃないか。旅の恥はかき捨て、って言うだろう?」

先ほどの店員が近づいてきて「Brawo(ブラボー)」と言いながらまた拍手をくれると、飲み物は何にするか、と訊いてきた。

「今日、既に昼間ワイン1本空けてるよね」
「よし、じゃあワインだ」
「言ってる意味がわからないけど」
「混ぜるなってことだ」

遼太郎は乾杯にとグラスシャンパンを頼んだ。
手を組み顎を載せた遼太郎が空になったピアノを見つめながら言った。

「…息子の蓮が音楽に興味を持った時、妻はすぐにピアノを習わせようと言った。そういう機会が、お前には与えられなかった。お前を産んだ桜子はまだ二十歳でしかも学生で、たった一人でお前を…」

遼太郎はそこで一旦言葉を区切った。声が詰まったように思ったが、すぐに続けた。

「お前のあの才能からしたら、もしきちんとレッスンを受けていたら、それこそ今頃ショパンコンクールで入賞でもしていたんじゃないかって、ふと思ったよ」
「父さん…」
「ここにお前を連れてきたのが罪滅ぼしだと言うのはあまりにも馬鹿げていると思う。でも俺はお前が…ここに…ワルシャワに足を運んでほしいと思った」

そこへグラスのシャンパンが運ばれてくる。

「じゃあ、ピアニスト川嶋稜央とワルシャワの夜に乾杯」

遼太郎はそう言ってグラスを挙げ、稜央は感極まって泣いてしまうかと思った。
2人はグラスを重ねたが、遼太郎は一気にグラスを空けてしまい、稜央は呆気にとられた。

手の甲で口を拭いながら「品がないのはわかってる」と遼太郎は照れくさそうにした。

「あ、いや、そうじゃなくて。まるで水のように…酒を飲んでる感じじゃないなって…」
「お前は弱いのか、アルコール」
「弱いわけじゃないけど…強くもないな」

そういえばチェリンとは…稜央の母とは、一緒に酒を飲んだことはなかったな、と遼太郎は思う。チェリンは酒、強くないのかな、と…。
甘い棘がシャンパンの中に含まれていたかのように、胸に刺さる感覚に遼太郎は戸惑った。

「父さん、罪滅ぼしなんて…思わなくていい。今日一日本当に、むちゃくちゃ楽しかった。父さんは?」
「俺はお前が楽しんでくれたのなら…。来てくれてありがとう」

やがてアミューズが運ばれてきて、遼太郎はワインをボトルで注文し、海外の料理はボリュームがあるから、コース料理の予約の際に量を調整して欲しいとオーダーした、と説明した。

サラダにパン、スープの後のメインは肉だった。稜央は高級なレストランで食べるステーキなんて生まれて初めてだったから、返って恐縮した。

「すっごい…ちゃんとしたステーキだ…。実家の頃はあまり豪勢な外食はしたことなかったから」

遼太郎はその言葉に再び気まずさを感じた。

「お前ももう働いてるなら、給料で母親と妹にご馳走してやれよ」
「確かに…そうだね。今度計画してみる」

稜央は慣れないナイフとフォークを使いながら夢中で肉を口に運んだ。

「母さんとはデートでこういう店とか行ったりしたの?」

稜央の言葉に遼太郎は少し目を丸くした。

「俺たちが付き合っていたのは高3から大学2年までだったからな。さすがにこういう店は行ってない」
「どんなところでデートしてたの?」
「…学校周辺とか地元の駅とか…ドーナツ屋に行ったり河原に行ったりとかだよ。普通に」
「あ、そっか…」

稜央は思い出した。母と父は中学も同じだから地元も同じなのだった。
そして野島といえばあの辺りでも大きくて有名な家で…確か県知事を務めていたはずだ。
あれ、俺はすごい家と関わりがあるのか、と稜央は思った。
じゃああの人は僕のお祖父さんってことなのか…。まぁ、それを互いが認識することは一生ないだろうけれど。

遼太郎はどこか遠くを眺めた。おそらく時が戻っているのだろう。

「母さん今でも…父さんのこと忘れられないって言ってた。もうあんな人には二度と出会えないって」

遼太郎は細めていた目を少しだけ見開き稜央を見た。

「彼女ほどの美人は周りが放っておかないだろうに。そんなこと言ってないで、早く他の人を見つけるべきだ」
「…一度はあったんだよ。再婚…再婚じゃないか…結婚相手がいたんだ」
「…妹の父親か」
「うん…俺、その男から虐待を受けて」

遼太郎はナイフを動かす手を止め、驚嘆の目を稜央に向けた。




#13へつづく

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