【連載小説】Berlin, a girl, pretty savage ~Moment's Notice #13
翌日。
どんよりと曇り、凍てつく空気がベルリンを包み込んでいる。
Silvester(大晦日)の今宵はベルリン・フィルのジルベスタコンサートを鑑賞することになっていた。家族4人で鑑賞するのは久しぶり。以前は梨沙が「退屈だ」と言って嫌がったので、夏希と蓮の2人で出かけていたのだ。
近年ベルリン・フィルの鑑賞はカジュアルな服装の者も増えたが、そこはやはり敬意を評して4人共ラフすぎる格好は避けた。
梨沙は膝下丈の、裏地が真紅になっている黒いワンピース、Little Black Dressだ。ジルベスタに行くことが決まった時にEmmaに相談したら、なんとShulz家が梨沙にプレゼントしてくれた。選んだのはEmmaだといい、彼女のセンスは流石だと思った。
顎下で揃えられた艶やかな髪は、夏希の手によってきれいに内巻きにカールされた。白く細い首には、このLBDに合うように自分で買った黒いベルベッドのチョーカーをつけ、それがとても映えている。
そう、昨夜夏希の部屋で初めてと言っていいくらいじっくりと話し合った翌朝、梨沙は大人しく母にヘアメイクをしてもらっていた。
夏希は「素敵よ!」と褒めた。梨沙は恥ずかしくて、うまく笑顔を浮かべられない。
「パパと蓮はもうロビーで待ってるらしいわよ。行きましょ」
そうして連れ立ってロビーに降りると、ラウンジのソファに座る2人が目に入る。
このコンサートに一番気合いを入れて臨んでいる蓮は、こだわりたがって蝶ネクタイまで締めているので、梨沙はちょっと笑ってしまった。
そして背を向けて座っていた遼太郎が振り向く。彼もまたビジネススーツとは異なり、普段よりもめかし込んでいる。
「やっとお出ましか」
そう言って梨沙と目が合うと、遼太郎は目を細めた。梨沙は慌てて目を逸らす。
ホテルからベルリン・フィルホールまではそれほど離れていないことと、外は凍えるような寒さと、いつ雨が落ちてきてもおかしくない曇が垂れ込めていたのでタクシーで移動したかったが、そこは蓮が「僕はU-Bahnで」と言う。
「梨沙はどうする?」
遼太郎は訊いた。梨沙はうつむきがちに「U-Bahnでいいよ」と答えた。
更に梨沙は遼太郎の後ろを歩いた。いつもなら真っ先に腕を組んで歩き出すのに。
そうしてスマホを気にしている。
稜央にメッセージを送っては、返事を待っている。
*
ベルリン・フィルハーモニーはPotsdamer Platz(ポツダム広場)駅の近くにある、五角形のテントのような奇妙な形をした、黄金色の建物である。Hans Scharounによる斬新な設計ではあるが、ゆえにパイプオルガンの設置場所に苦労したり、今日ではステージのひな壇はエレベーター式になってるのが一般的であるが、ここは開館後に装置を設けた関係でパンタグラフ方式になっているなど、なかなか苦笑いしてしまうようなポイントがある。
建物の前にある通りの名前は、ベルリン・フィルといえばかの有名なカラヤンから取った、Herbert von Karajan通りである。
音楽に関しては家族の中では最も長けている蓮が演目を見て言った。
「今年のテーマは『舞曲』なんだね」
蓮の言葉に再び演目に目を落とす。確かにタイトルからはよくわからないが、聴けばわかるかもしれない。
「ドヴォルザークの『スラヴ舞曲』とかは流石に誰でも聴いたことがあるでしょ。あとは ブラームスの『ハンガリー舞曲』。なかなか賑やかでわかりやすそうだね。お父さんたちにも優しいんじゃないの? 今年のジルベスタは」
蓮に言われてようやく "そうなのか" と思う。
「ね、今日の演目にピアノ曲ってあるの?」
蓮にそう尋ねた梨沙に、遼太郎はヒヤリとした。
「ステージにピアノ置いてないし、入ってないと思うよ」
「ふうん…」
稜央のことを考えているのか。
昨夜梨沙から話を聞いている夏希が嬉しそうに微笑んで
「梨沙もこれから、ピアノコンサートとか聴きに行ったらいいじゃないの」
と言うと、梨沙はちらりと遼太郎を見てから俯いた。
*
コンサートが始まり、やはり有名な曲はそれなりに楽しめるが、馴染みのない曲では梨沙は船を漕いでいる。遼太郎もどちらかといえばそちら側の人間だ。ピアノならまだ…生演奏を聴く機会もあったが。
まったく、こんな奴がベルリン・フィルのジルベスタなんていう贅沢な時間を過ごしていいのかと遼太郎は自嘲する。聴きたくても来られない人は世界中に山ほどいるだろうに。
しかし、真剣に食い入るように舞台を見つめる蓮を見て、まぁ、これで良かったんだと思い直す。
*
ベルリン・フィルのジルベスタは開演時間が早いので、コンサートの最中に年は越さない。
終演後、大晦日で店はどこも早く閉まってしまうため、ホテルに戻ってからディナーを取ることにした。
道すがらあくびをする梨沙と、反して興奮気味の蓮。
「蓮、お前もいつか、あんな舞台に立つのかな」
遼太郎の言葉に蓮は案外「どうだろうね」と返す。
「アンサンブルは確かに素晴らしいよ。やっぱり一人で弾いているのよりも、合わせた時の感動は言葉にできないね。僕の場合、人に話すのは得意じゃないから別にいいんだけど。それにね、楽器に載せた方がうまく話せるんだよね」
「楽器の方がうまく話せるって、どういうことだよ」
「言葉よりも感情を表現できるってことだよ。言葉なんて嘘つきじゃないか。何も真実のことを伝えやしないじゃないか」
遼太郎は蓮の頭を撫で「じゃあ今度、ちゃんと聴かせてくれ」と言った。心の中では、こんな俺が蓮の言葉を理解することが出来るだろうか、と不安になったが。
アイツなら…稜央ならわかるのだろうか。
母親は違うが、蓮にとっては心を通わすことが出来るような気がした。
もう二度と、決して会わせることはないが。
しかし、梨沙とは出逢ってしまうという皮肉。
「高校生になったらオケは参加してみたいと思う。でもプロになるつもりはないかな」
「どうして?」
「苦労すると思うんだよね。僕がずば抜けてすごい才能を持っているとは思えないし」
「そんなこと、今からじゃまだわからないだろう?」
「僕は別に、音楽で食べていこうとかあまり思ってない。それより鉄道会社に勤める方が、生きていく上では現実的だと思う。趣味でアマオケとか参加する方が、よっぽど楽しい人生になると思う」
まだ中学生なのにそこまで考えているのか、と遼太郎は驚いた。
稜央が聞いたらなんて言うだろうか。
"恵まれた環境にいておきながら、育ちの違いって恐ろしいな" なんて言うだろうか。
稜央は、もしも恵まれた環境で音楽を学ばせてやっていたら、今頃『金を払ってでも聴きたいピアニスト』になっていただろうか。
以前、彼がオケを従えて人前でピアノを演奏したコンサートのことを思い出す。
"心さえもっと鍛えていれば" そうなっていたかもな、と考え、我に返り自嘲した。
*
ホテルで簡単にディナーを済ませると、間もなくブランデンブルク門でカウントダウンイベントが開かれる。
街中の至る所で、益々激しく爆竹が鳴り響いている。うるさいを通り越して、なんだか愉快だ。
家族揃って遼太郎の部屋に集まった。蓮は既にラフな格好に着替えていたが、梨沙はLBDのまま。心なしか緊張した面持ちだ。
窓から通りを見ると、既にイベント待ちの大勢の人が沿道に溢れ、クライマックスに向けて高揚感が高まっていた。が、一人、梨沙だけが俯いてスマホに何か打ち込んでいる。
「梨沙」
遼太郎の梨沙は呼びかけにハッと顔を上げた。
「何をそんなに気にかけてる」
「別に気にかけてること…ない」
「そうか…。なら…いいんだけど」
やがてカウントダウンが始まり、門のすぐ背後で花火が上がった。
はしゃぐ蓮と一緒になって花火を楽しむ夏希。
梨沙の瞳にもその輝きが映っていたが、黙って唇を噛み締めたまま。
「おめでとう」
家族でも挨拶を交わし合う。しかしやはり梨沙だけ笑顔はない。
梨沙はメッセージを稜央に送った。
年が明けた。夏が来たら日本に帰る。
日本に帰ったら…。
#14へつづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?