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勝手なワイン探し

(8)月子さんとノブちゃんへ
 
 まったく残念ですけど、一人でオーシャンビューのホテルに泊まるなんて、自分の懐具合では無理です。そこで星の数が少ないホテルを探しました。海辺では当然、星が4、5個あるのでの中心から少し離れたホテルはないかと歩き回りました。
 
 どうせ寝るだけですから、星のない、流れ星のようなホテルで十分。それで見つけたのが星ひとつのホステルです。「Hostal Bar Restaurant」という看板があり、1階はカウンターがある小綺麗なカフェで、小道に面した通りにはテーブルが数個置かれ、外でも飲食できます。レストランやバーというよりは、カワイイ、手造りのカフェという感じで、店内にはヨットや錨などの海を彷彿させる置物が展示されています。

 ホステルとは初耳です。どうやらB&B、つまりベッド・アンド・ブレックファストのようなところで、ホテルよりも明らかに格下でしょう。部屋を見せてもらうと、ベッドとトイレとシャワー、それから天井にファンがあるだけのシンプルな部屋ですが、いまの自分には十分なのでそこに決めました。飛び込みで手頃な部屋が見つかっただけでもラッキーと思わなくては。それに嬉しいことにWi-Fiが無料で使い放題ですから、月子さんとノブちゃんにメールするにはもってこいです。

 もちろん部屋の窓から海が見渡せるわけではありません。でも、ベッドはダブルとかなり広く、ゆったりとしています。自分は背中から重いバックパックを下ろし、ベッドの上にごろんと大の字になりました。やっと落ち着けたなと安心するなり、時差ボケなのか急に眠くなり、着の身着のまま睡魔に身を任せました。
 
 目が覚めるとすでに翌日の朝、外は明るく、夏の朝日がカーテンの隙間から差しています。時計を見ると、どうやら12時間近く寝込んだようです。早速、ワイン探しに取り掛かることにします。ここまで来てしまった不思議な責任があります。

 さっそくホステルから出て、散策に出てみました。レストラン、バー、スーパーマーケット、ホテル、土産物屋、ブティックなど観光客相手の店が軒を連ねています。ひとつ不思議に思ったのは、日本で言うところのワインショップ、ないしは酒屋というものがないことです。ましてや月子さんが働いていたワインとチーズの専門店のような店は見当たりません。

 そこでスーパーマーケットはどうかなと思い、近くのスーパーに向かいます。するとあの女性とすれ違いました。空港で荷物を最後まで待っていて、私の荷物が来ないのに気づくとイベリア航空のカウンターを指差した、あの女性です。水着に白い長めのシャツを羽織っただけの姿で、スーパーの前を横切ると自転車をこいでどこかに去って行きました。

 スーパーの中に入ると、ワインがずらっと棚に並んでいます。すべてがスペイン産のワインで、嬉しいことにその中にはマヨルカ島で生産されたものもありました。ボトルのエチケットに「ビニサレム、マヨルカ」(Binissalem, Mallorca)という表記があります。中には「マヨルカ原産」(vi de la terra Mallorca)と書かれたものもあります。マヨルカ島のワインについて検索してみたところ、ここ約10年の間にワイン生産が質・量の両面で飛躍的に向上して、この島固有の葡萄品種が使われた美味しいワインが生産されるようになったとありました。

 これぞ朗報です。

 スーパーの棚にはスペイン全国で売られているスパークリングワイン(日本のコンビニやスーパーでもよく見かけるもの)や、スペインのリョハワインも置いてあります。スーパーであるせいか値段も手頃、安いものはなんと3ユーロ(1ユーロが約150円計算)ぐらいから高いものでも16ユーロ程度です。20ユーロ以上のものはないようです。日本でいうなら450円程度から3000円ぐらいのワインというところです。

 マヨルカ島原産のワインはだいだい6ユーロからで、高いものでも16ユーロぐらいです。自分はボトルにマヨルカ島産と明記してあるものを2本選び、まずはテースティングしてみることにしました。その後、エチケットが素敵なものを買いました。スーパーの棚を見る限り、それほど種類は多くはないものの、どうやらこの島ではワインが生産されているようです。それがわかっただけでも収穫です。ワクワクしてきました。

 チーズと生ハムも買いました。チーズは現地産で100%羊乳から作られたマンチェゴ(Manchego)、ハムはパックに入ったセラノハムです。それから大事なのがワイングラス。大きめのものを選びました。プラスチックのコップでは、せっかくのワインがかわいそうです。

 

生ハム、チーズ、バゲット、そしてCAVAーースパークリングワインがあれば人生文句なし!

ホテルに戻るなり、まず月子さんからもらったソムリエナイフでコルクを抜いたのは、ホセ・L・フェレールという醸造家の名前が大きく書かれた赤ワインです。太陽のような黄色のエチケットに赤の線が斜めに入っていていかにもスペインらしく、D・Oビニサレムでクラアンサと大きく記されています。

 検索してわかったのですが、D・Oビニサレムとは、ここマヨルカ島のビニサレム地域内で厳しい基準を満たして生産されたワインであることの証明だそうです。島の北西部に位置する、世界遺産にも認定されているトラモンタナ山系の麓に広がる地域です。空港からバスに乗ってこの街に来る際、高速道路から土色の岩肌をあらわにしていたのが、このトラモンタナ山脈なのでしょう。

 ではではと、自分はグラスに赤ワインをゆっくりと注ぎます。色は濃く綺麗な赤です。グラスを鼻に運ぶと、微かなハーブや熟成した果物の香りがします。ココナッツの微かな香りもします。素晴らしいワインの予感です。  

 口に運ぶと、滑らかさが舌に心地よく、辛口でコクがあり、フルーティです。地元の葡萄品種であるマントネグロをベースに、カルベネ・ソヴィニオンやスペインの代表的な品種であるテンプラニーリョなどが綺麗に混ざった結果、全体的に力強く、リッチで複雑な世界が口の中に広がります。マントネグロ、カルベネ・ソヴィニオン、テンプラニーリョの3品種がボトルで仲のいい友だちになって、美しいハーモニーを造り出している感覚です。月子さんに鍛えられたおかげで、この程度のことは自分の舌でも理解できます。

 月子さんの口癖でしたよね――「この3品種は仲がいいみたい」、「このブレンドされた品種は喧嘩しているよね」、「この3品種のうち2品種はマリアージュ(結婚)しているけど、あとの1品種は仲間はずれかな」とか。自分が「狭いボトルの中なんだから、愛し合えばいいのにね」と口を挟むと、すかさず月子さんがこうつけ加えましたよね――「人間と同じよ。葡萄にも相性とか好き嫌いがあるのよ。奇跡が起こることもあれば、悲劇も起こるのよね」

 もう1本も、ホセ・L・フェレールのものでこちらはエチケットに樽の絵が描かれ、その上にスペイン語で「Anada Roble」と書かれています。検索して調べてみると、どうやらこれは英語で言うところの「Aged in Oak」という意味らしく、アメリカンオークに半年間寝かせておいたワインらしいです。コルクをポーンと弾ける音と共に開け、ワインをグラスに注ぐと、グラスの底に綺麗な赤が溢れ、チェリーとバニラの香りが漂い、バランスの良い、滑らかな味わいが楽しめました。

 このどちらも情熱的です。赤が深く、真紅というかビロードというか、味わいもしっかりと凝縮していて濃く、さすがスペインワインという感じで、まろやかさと力強さが両立しています。太陽をたっぷりと吸収した葡萄の味というか、もし太陽に味があるとしたら、こんな味わいになるかもしれません。辛口であっても地中海の太陽をいっぱい吸収し、完熟した葡萄の甘さがあります。太陽と空の恵みが凝縮したワインです。

 なるほどビニサレムか……ビニサレム、ビニサレムといましがた仕入れてきた新しい産地名を口の中で数回繰り返しました。空港や飛行機の中のワインが美味しくなかったので、今日発見した新豆知識には感動しました。まるで宝を探しているような気分です。

 さてこの2本は日本でも売られているのかと検索してみました。結果は、やはり両方とも日本でも紹介され、売られています。価格も安く、味は美味しいとなれば、コストパフォーマンス抜群、当然日本にも輸入されるでしょう。この島で美味しいワインが造られていることを確認できて嬉しかったのですが、同時に日本でも売られていることがわかり、少しがっかりしました。

 月子さん、ビニサレムのワインを知っていますか。たぶん月子さんなら耳にしたことはあるでしょうね。でも、飲んだことはありますか。

 無駄だと知りながら、どうしても聞かずにはいられません。

 たぶん飲んだことはあるでしょう。ソムリエ仲間が何人もいて、よく情報交換していて、高価なワインでも二、三人のソムリエがカネを出し合って試飲するのだと話していましたよね。

 ワイングラスを再度口に運ぼうとするなり、突然、誰かがドアをノックしました。自分の手が止まります。誰だろう? 耳の錯覚かな?

 ドアに目をこらすと、誰かがまたゆっくりとノックしました。自分に用事がある人などいるはずがない。もしかしたら、ホステルの店主が何か用があるのかもしれません。

 また、メールします。
(続く) 

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