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初恋

(15)月子さんへ (CC ノブちゃん)
 
 ノブちゃんと会ったのは約5年前です。彼が経営している店が会社の近くにあり、ランチをよく食べに行きました。週に1回は行くので、通ううちに自然と挨拶するようになり、たわいない会話をするようになりました。それが一変するのは、3年半以上がたってからです。ある日、電車のホームでかち合い目線が交錯しました。しかし、いつもの彼とはどこか違うのです。自分を見る目がどこか違っていた。いつもの営業スマイルもトークもどこかに消え、ただ自分を見つめているのです。その目は不思議と輝き、幼い子供がプレゼントをもらったときのようなあどけない輝きがありました。それでいてなぜかミステリアス、自分に何かを話しかけようとしている、でも言葉が出て来ないようでした。心に何かを秘めているような眼差しです。
 それからというもの彼の視線が気になり始めます。彼のレストランでランチを食べている際も、自分を横目で見る彼の視線が胸に刺さりました。そしてその後、自分のなかで妄想が始まります。3年間以上もただの顔見知りでしかなかった男が、急に特別の人になっていきます。もしかして彼は……自分の内のハートが急に興奮し始めます。不思議なピンク色へと動き出します。互いを意識するようになり、自分が一人でランチを食べていると、彼がよく話しかけてくるようになります。会社のこと、仕事のこと、街のこと、食事のこと、そして名刺を交換し、「今度、飲みに行きましょう」と二人の関係が自然と発展していきました。
「青山の秘密クラブに行きましょうよ。美味しいワインも飲めますよ」と、彼に誘われたときは正直びっくりしました。そのクラブの入口で人差し指をかざすと、指紋が検証され、ドアが開く、そんな会員制の店だというのです。 
「秘密クラブ」と聞いて、いきなり隠れ場的な、一度足を踏み入れたら何が起こるかわからないバーにでも連れて行かれるのかとドギマギしました。もしかしたらゲイバーか、ミックスバーか、ないしはパプニングバーではないのか。行きたいような、行きたくないような、ドキドキしてほぼ一日中そのことが頭から離れませんでした。でも、最終的に自分のなかの好奇心が勝りました。
 出かけてみると、会員制のこじんまりした普通のバーでした。バーテンダーが月子さんのようにソムリエの資格を持っていて、月子さんと同じソムリエのバッジを胸に付けていました。この最初のデートは、男と女のデートと変わりはありません。互いのことを話し合い、まずは知り合うことから始めました。ノブちゃんが自分に発した最初の質問は、「結婚しているんですか」です。
「正式に結婚したことはないけど、5年近くある女性と同棲していたことがあった。いろいろとあって別れたから、まぁ、バツイチみたいなものだろうな。あなたは?」
「一人者です。結婚したいと思っているんですが、残念ながら出逢いがなくて。店の跡取りがほしいですからね」
 ノブちゃんは大きなレストランチェーンを経営する一家の次男坊。高校を卒業して大学に入学しますが、1年で退学、その後は父親の店で働き、仕事を手伝い始めたそうです。キッチンもホールも経験した後、自分で店を切り盛りしたいなと考えていたころ、ある店を任され、独立し、それでいまの店のオーナーになったそうです。
「彼女は?」と尋ねると、また「出会いがなくて」と一言。その晩、彼は何回か「出会いがなくて」と繰り返します。いまの店を始めて5年以上にもなるのに、店で知り合い飲みに行ったのは、この自分だけだというのです。


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 その日、互いに打ち解け、かなりフランクに話しあったのですが、結局、その夜は何もなく別れました。別れる際、両手で握手をし、笑顔で挨拶をしました。店で見せる表情とは違い柔和で打ち解けた雰囲気です。それに会話の中で恋愛相手は、「女でも男でも」といった指摘が飛び出し、暗に自分を誘っているようでした。それでもあと一歩踏み出せませんでした。
 それまで自分は男性と恋愛をしたことがなかったのです。エッチをしたことはあります。でも、それは中学生と高校生のときのことです。男子校だったので、同級生とHなことをして遊んだことがあるというたわいないことでした。それだけ。それ以外で男性に誘われたことはあったにはありましたが、どうしてか本格的な恋愛やセックスを楽しむという性愛の関係には至りませんでした。
 それでも中学生のころから、自分のなかにピンクのハートが存在し、それが男の子に密かに惹かれていることを知っていました。なぜなのか、知る余地もありません。それはなぜ人は男に生まれてくるのか、女に生まれてくるのか、という質問と同じでしょう。答えはないのです。なぜそんなハートが自分のなかに持ちあわせているのに、ゲイにならなかったのか。それもわからない。なぜ心の隅にそんなハートが潜んでいるのに、女性が好きなのか(ピンクサロンやソープランドなどの風俗嬢と遊ぶのも好きでした)。それも不思議です。滅多にないことでしたが、男性と目があいドキッとする瞬間がありました。その衝動がいったい何なのか、自分でもよくわかりません。そんな衝動がありながら、自分はゲイバーやミックスバー、ゲイ専用の映画館やサウナなどゲイの人が集まる所に行くことはありませんでした。自分の中にそんなハートがありながら、女装することや、ましてや肉体改造して女性に生まれ変わりたいと願ったことは微塵もありません。
 それをすべて変えたのが、ノブちゃんです。
 2回目のデートの際、自分のほうから「女の子も、男の子も好きなの?」と率直に聞きました。彼が軽く頷くと、あなたはどうなのかと彼が聞き返してきました。「正直、わからないんだ」――それ以外の答えはありませんでした。
「僕の部屋で飲み直しますか。とてもレアな赤ワインがありますから。カリフォルニアのナッパでもなかなか入手できないというカルトワインです。業者さんからの贈り物ですけどね」
「ハリウッドセレブの御用達だとか? 飲んでみたいですね」と答え、彼のマンションに向かいました。これまでの自分だったら、その場から逃げ出していたでしょう。
 彼のマンションに着くと、そのナッパのカルトワインを開け、乾杯しましたが、味は覚えていません。テースティングをして、二人でコメントを出しあいました。でも、何と言ったか忘れました。二人ともベッドの端に腰掛けましたが、金縛りにあったように体を動かすことも、言葉を発することもできません。ワインを飲み干し、グラスをテーブルの上に置きます。しばらく二人ともどうしていいやらわかりません。すると彼が手を膝に伸ばしてきました。その手を握り返しました。暖かく、肉厚で柔らかい手でした。体内に隠れていたピンクのハートが反射的にうずき始め、スイッチが入ります。その欲望をもうどうにも制御できません。
 その夜、初めて男性と真剣にセックスをし、彼のことを本気で好きになりました。40歳過ぎてからの初めての経験です。
 その夜、自分の中に潜んでいたピンクのハートに目覚めました。目覚めてしまったのです。それまで男性とキスするなんて想像することすらできませんでした。嫌悪感すら感じていたかもしれません。でも、あの夜は不思議と自然に愛しあえました。
 終わった後のピロートークでも、彼の胸に顔を埋め、ピンクのハートがささやいていました。「男の子と女の子、どっちが好きなの?」、「これまで何人の男の子とやったの?」、「自分とのセックスはどう?」、「自分のこと好き?」などなど。
 性格もすっかり変わり、彼のちょっとした仕草、ちょっとした一言、その一挙手一投足に敏感に反応していました。無意識のうちに自然とそうなってしまったのです。ノブちゃんと二人だけで話すときは、常にピンクのハートが喋るようになり、別人に変身してしまいます。ベッドでは彼に好きなようにされ、それが至福でした。自分がノブちゃんよりも年上で、兄貴分だから彼に対して寛容になれるのではないかと考えたこともありました。しかし、それは言い訳でしかありませんでした。
 実際のところ、自分の本当の肉体的な年齢は40歳をとうに過ぎていたのに、内に潜んでいるピンクのハートは長年の冬眠からさめたばかりなので元気いっぱい、恋に夢中になっていたのです。その夜から男女が交際するように、自分とノブちゃんは付きあい始めました。自分は女も男も好きだということを思い知りました。思い知らされました。これが本当の自分、本当の自分の色なのかと疑い、迷い、自己嫌悪に陥ることすらありました。外見は中年のオジサンなのに、実はバイセクシャル、ピンク色のハートを体内に隠し持ち、女とも男とも愛しあっていたのです。
 でも、これは単なるセックスや遊びではないことも自分のなかではよくわかっていました。恋をするように、四六時中相手のことを考えるのですが、いざその人の前に出ると何を喋っていいやら、急に頭が白くなり、言葉に詰まってしまうのです。ないしはまったく意図もしなかった言葉を発してしまうのです。うつむいてしまったり、目をそらしたり。相手と何百と話したいことがあるのに、ことばが出てきません。彼の店の前を通ると、無意識のうちに覗き込みます。
 

マヨルカ島の象徴であるヤモリ

 店にいなければ、どうしたのかなと思い巡らせ、いれば軽く挨拶をし、互いの目が合えば嬉しく、合っても何の反応もなければ心配になります。これが恋わずらい、恋のいたずらでなくて何でしょうか。逢えないときはあらゆる妄想が働き、また逢えると嬉しくて仕方がありません。ノブちゃんと過ごす時間が余りにも楽しかったのです。ノブちゃんのほうが自然体でした。「自分は自分でしかないんじゃないの。好きなことをすればいいんじゃないの」という、彼の何気ない一言に勇気づけられました。
 その日、愛し合った後、自分はワインを飲みながら夕日を眺めていました。ロゼワイン色の夕焼けは美しく、空の端はすでに赤いワイン色に染まりつつありました。空はピンク、ロゼ、赤、黄色、黄金色などと、赤ワイン、白ワイン、ロゼワインが持つありとあらゆる色が散乱していました。
 この夕日のように、人にはさまざまな色のハートがあり、それぞれ違う色をしているのかもしれない。子供への愛情、親への愛情、伴侶への愛情、仕事への愛情、祖国への愛情など、いわばそれぞれに愛情のハートがあり、それぞれに色があるはず。あの夕日のようにあらゆる色の輝きがあり、その色には幾万の濃淡や、グラデーションが存在するのではないか。そしてなぜか、この自分にはあのピンクのハートが隠れ潜んでいるのです。
 自分は夕暮れに向かってつぶやきました――「自分は自分、これでいいのではないか」
 そう思いながらも同時に、そのハートに疑いも抱いていました――人は同時に二人の人間を愛することができるのか。人は同時に男と女を愛せるのか。セックスだけではない。心から愛せるのか。バイセクシャルとは性欲が強いだけではないのか。つまり、ドスケベ、ド変態、誰とでもやれるだけのことではないのか。
 自分にはわかりませんでした。答えはあのロゼ色の夕日の彼方、風の中に舞っているに違いありません。
 夕日の美しさは束の間で、一瞬にして黒い夜の闇に包まれていきました。
 また、メールします。
 (続く)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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