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「誰かのため」に生きることは不幸と幸せ

「理想の自分」「なりたい自分」について最近、よく考える。

昔から「どんな人になりたい」とか「憧れの人」だとか、そういうのが苦手だった。できるだけ早く子供を産んで、お金持ちと結婚して・・・そんな風にキラキラした目で楽しそうに夢を語る同級生たちを、私はいつも不思議な目で見ていた。将来のことなんて、正直あまり真剣に考えていなかったし、ただ親が喜ぶからって理由で、有名大学を目指したりしてた。なりたい職業もあったような気がするけど、今はもうよく覚えていない。

それでも、あの頃、私はちゃんと生きていた。自分の欲求に鈍感で、理想の未来なんてちっとも描けずにいたけど「誰かの望む未来」を目指し、「誰かの望む自分」を演じることで、なんだかんだ楽しく、一生懸命生きていた。



あの頃、描いていた未来とは似ても似つかないような日々を過ごすようになって、向けられていた期待や希望が、絶望や落胆に変わっていくのを感じた。「誰かの期待」こそがずっと私のエネルギーだったし、その生き方しかしらなかった。だから、向けられる絶望や落胆を私は自分自身への不甲斐なさへと少しずつ少しずつ変えていった。指標を失って、自分で自分を傷つける。そんな日々だった。

今思えば、そうして初めて自分自身に目を向けたのかもしれない。「誰かの期待」で成り立っていた私は、その期待を失い、からっぽになった。ぽっかりと開いてしまった穴を埋めるように私は「私」について、考え始めた。



今でもまだ、時々、誰かの期待のために生きそうになる。

それだけがエネルギーだったあの頃と違って、ちゃんと「私」で埋まった今の私にとってそれはもう必要なものではない。だからつい拒絶してしまうし、そんな生き方は窮屈だと思う。

それでも、あの頃、親や先生、同級生や後輩たちの期待のためだけに必死で生きていた私を、あの時間を否定しようとは思わない。今はただ、違う生き方を見つけたいうだけで、あれはあれでちゃんとした1つの生き方だったのだから。


「どんな人になりたい?」

その問いに「私は「私」でありたい」と、答えらるようになった今も、誰かのために生きていたあの頃も、自分で自分を傷つけるしかなかった地獄のような日々も、いつも同じように私はちゃんと生きてきた。人生なんて、そんなもんだ。

どんな風に生きようと、どんな私であろうと、もし仮にそれが自分以外の誰かの望む形であったとしても、ただ自分がその時、選びたいほうを選べばいい。

もっと肩の力を抜いて、好きに生きても、いいんだと思う。

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