子供の頃から減点法の中を生き抜き、居場所のある全ての人を尊敬したい
今更ですけど、生きていくって大変だなぁと思います。
子供の頃から考えても、常に何か試練が待っているんですよね。乗り越えたと思ったら、別の試練が待ち受けていて、安定したと思ったら状況が変わってそこに適応しなきゃいけない。
最初の試練って幼稚園くらいの頃から既に始まっていて。
かけっこ速くないといじめられるし、普通にコミュニケーション取れないと虐げられるし、やれと言われたことが出来ないと怒られる。
小学校に入るとそこに勉強が加わりまして、成績が悪いと先生や親から結構な言われ方をしてしまう。
苦手だということで許されることもあるにはありますけど、体裁上は許してくれてもコミュニティの中のヒエラルキーが下がってしまうという側面は否めません。
だって、食べ物が苦手なものがあってもダメだし、楽器が上手く扱えなかったり音痴っていうこともマイナス材料になっちゃう。
あ。
あと肥満とか、身体的な特徴でさえも減点される。
つまり。
子供社会ってこっちが考えている以上に苦手があると結構大変なんですよ。
今にして思うと自分ってまぁまぁあらゆることをこなしてきたんだなぁと思うんですよね。
ただちょっと考えてみると、私って結構減点食らったら相当マイナス評価をされるタイプの人だと思うんです。
例えば勉強できなくてもスポーツ出来るだけでオールオッケーというタイプも居ますし、大人や先生からの評判は最悪でも同級生の中では全然マイナス評価を受けていないタイプも居ました。
あの手の人たちって本当に得ですよ。
でも、何故か私はそうじゃなかった。
でね。
この減点法の評価って、結局43歳の今に至るまで続いていましてね。
いつの間にか採点項目からかけっこが消えていたものの、学歴やら経歴やらスキルもそうですし、コミュニケーション力とか異性に対する立ち居振る舞い、場合によっては楽しく喋るみたいな部分さえも問われることになります。
どんなに誠実でも面白さが低いだけで「あの人は年収は高いけどつまらない」なんていう地獄のような採点をされることもありますからね。
おかしい。
こんなにずっと色々とアップデートし続けなければいけないなんて聞いてねえぞ。
社会人になったら仕事して酒飲んで、土日は競馬して寝ていればいいと思っていたけど全くそんなことは無かった。
若い頃の苦労を買ってでもした結果、今もなおそれなりに苦労し続けているっていうのは一体どういうことなんだ?
まぁそういうことなんだよ。
生きていくっていうのは。
状況が変わる中で、求められるものも変わって。新しく自分がしなければいけないことが増えて。
たぶんこれって、適応できないと孤立していくんですよ。で、常に自分をアップデートできている人が社会やコミュニティと寄り添っていける。
今の時代は求められるものも多いし、出来ないことがあると周りが厳しい。言い換えると過去に許されてきたっていうだけの話かもしれないです。
それを息苦しいというのはそもそも違うのかもしれませんけど、今の世の中と年相応の役割に適応しなければならない大変さっていうのは誰しも抱えているとは思うんですよね。
そういう大変さを評価してほしいっていうのが、SNSのいいね文化なのかもなぁって思いました。でもいいねしてもらえなくてもどかしくなる、みたいなこともあって、何してんだよとも感じる訳です。
どこまで行っても求められることもそうだし、変わっていかなければいけないということも付いてくる。そしてそれらに対して減点法で見られるということも宿命づけられている。
これを苦しいと思っていたら、生きることなんて一つも楽しくないんですよ。
だから普通に社会に適応して、自分の役割を果たして、弾かれずにそれなりに居場所がある全ての人って凄いと思います。
そんなこと、全く想像もつきませんでしたけどね。
子供の頃は。
でも、求められることに常に応えていくということがなかなかに大変で、降りることが許されない中で降りずにやり抜く人たちが居るから社会がそれなりに良いものになっている。
これ結構大事なことだと思うんですよ。
あんまりみんな言わないけど。
子供も、大人も、老人も。
減点法の中で生き抜き、居場所を作れている全ての人を私は尊敬します。
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