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「勉強が出来る=仕事が出来る」ではないことを学生時代のバイトで知った話

高校までは褒められて育ってきた自分

以前お話しした通り、私は子供のころから怒られるのがとにかく嫌いで、更には大人が決めたことをルール通り行うことに対して抵抗が無かったので優等生扱いされることが多かった。

最終的には大した学歴ではないが、扱いやすくて感性が大人と変わらないことから大人からは褒められて育っていたように思う。

大学入学まではそれほど大きな挫折と言える経験は無かったので、繰り返すようだが相対的には大した学歴ではないし大した成績でもないのだが自己評価は高いまま来てしまったように感じている。

さすがに18歳までこのような育ち方をすると、根本に自信があるので多少上手く行かなくても動じることはない。否定されて育つとこの逆になるそうなのだが私にはその経験が無いのでサッパリ分からない。

何となく、大丈夫。
根拠があるようで無いのだが、自信はある。
そんな自分が出来上がっていたのである。

この自信が大学入学までの自分を支えてきた訳だが、暗記をしたり問題を解いたり、決められたルールを守るということだけでは足りない何かが必要であることを私は知り、大変な思いをすることになる。

一言で表すと「高校までの評価と仕事の評価は一致するものではない」ということだ。

仕事は学校で教えてくれないことばかりで焦る

大学に入って心底良かったと思ったのは、かなりの時間をアルバイトに割いたことだと思う。

勿論その理由は別にアルバイトで楽しい思い出が出来たり、今も続く人間関係がたくさん出来たからということでもない。ましてや彼女を作ったことでもない。それも有意義だったとは思うが、今回の趣旨からは外れるのでひとまず置いておこう。(そういう良さを経験していないとは言っていない)

最初のアルバイトは家庭教師だったので、これについては学校生活と仕事とのギャップを感じることが無かった。

何度かこのnoteで登場している、元芸能人が経営する弁当屋「おべんとうのK(通称おべK)」で私は仕事の適性について大きく考えさせられることになった。

私はとにかく、ここでよく怒られた。
要するに、瞬時の判断が悪いのである。

何を最優先して行えばよいか。
誰が何処にいるか。
自分で何が出来るか。

このようなことを理解し、限られた人数の中で行動に移す。

慣れてくると経験則で何をすれば良いかは理解できるし、仮にオーバーフローしていたとしてもある程度仕方が無くて、アルバイトの立場だと自分に出来ることをするしかないということが割り切れる。

ただ、一通りそういった部分が見えるようになるまでは都度聞くわけにもいかないので自分でその時のベストアンサーを考えて行動せざるを得ない。

私の場合極度のあがり症、それは恐らく精神科に行けば何らかの処方が必要なレベルのものだが、どうにもならない欠点を抱えていたこともあり一度頭が真っ白になり心臓がバクバクしてくるともはや正常では居られない。

周囲の感情がみるみる悪くなるのを気にしてた結果、正しい行動を求めて迷路に入ってしまう。正常ではない自分が選ぶ回答はことごとくハズレである。こうして私はいつも怒られる。

短い人生の中で、こんなに私は怒られた経験が無い。こんな職場さっさと辞めてしまえばいい。でもこれまでの人生の中で何かを投げ出したり逃げたりという経験は無いし、そうすると自分が更に大きなダメージを受けることを知っているから、怒られても続けることを選ぶ。

最終的にはある程度出来るようにはなったので、この点に関しては自信になったのだがとにかく大きかったのは仕事をするうえで大きな弱点があることに気づけたということだった。

学生時代のアルバイト経験は後に仕事をするうえで重要

アルバイトというのは実に気楽な立場で、仮に怒られたとしてもそれはあくまでもアルバイトだからだ。

仮にこれが社会に出た後でいきなりこの状況に陥ったとしよう。会社というのは最初の印象がかなり大事で、良く出来ると最初に思われると周囲も出来る人として認識してくれる。しかし、最初に出来ない人だと認識されると本当に苦しい。

少し突っ込みどころのある何かをすると、その部分を非常に厳しく迫られる。もし出来る人が同じことをしたとしても大して問題にはならないのに、だ。

社員になれば最初の評判に付き合っていかなければならないが、アルバイトはしょせんアルバイトだ。仮に周囲から冷たくされたとしたら辞めてもいいし、出来るようになるまで自分を鍛えてもいい。どちらを取るかは本人の自由である。

だから、学生のうちに様々な形の仕事に向き合えば自分の適性も見えてくるはずだ。そして、学生という立場だからこそ失敗は許される。

更に言えば、仕事の適性というのは高校生までには見えないものだと思う。学校生活で行うのは授業を受けることと、クラブ活動に勤しむことくらいだ。つまり、非常に限られた能力が問われる場だと言えるだろう。

勉強と集団行動のスキルは仕事には連動しないこともある

端的に言えば、高校までで問われる適性は「勉強が出来るか」「集団行動で上手く立ち回れるか」という2点に限られると思う。

だから、仕事に求められる適性をこの期間に鍛え、向き不向きを見定めるべきなのだ。

褒められて育つということは自信を根っこの部分から持つことに繋がる。
それ自体はいいことだ。

しかし、自信が過信を生み、更にはプライドを保とうとするがあまり逃げ癖が付く可能性もあることを忘れてはいけない。

不向きなことに直面した時にどう克服するか、どう立ち回るか?というのは今後の人生の中で出てくることだが誰も正解など教えてはくれない。

だから、自分で学ばなくてはならないのだ。

勉強が出来て、周囲との関係が良好であれば褒めてもらえる環境からいきなり社会に放り出されたとしたら、この難題には責任を背負った状態で乗り越えなければならない。これは非常に大変なことだと思う。

こんなことを言いながら恐縮だが、私は結局社会人生活の中で不向きなことに直面し続けているように感じている。例のあがり症もまだ健在だ。そのあたりの話は折を見てしようと思うが、瞬時の判断は依然として苦手だ。だから車の運転も極力避けている。

ただ、学生時代の経験があるからこそ瞬時の判断も出来なくはないし、立場が危うくなる可能性がある時は責任を共有する術も持ち合わせている。苦手なりに立ち回れるようになれたと思う。

高校まで求められていたことが実に限定的なことで、仕事では自分に不向きな部分が求められることを知った時はショックだったが、早く知ることが出来て本当に良かったと思う。プライドだけが肥大化したモンスターにならずに済んだのだから。

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