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倫理=わりきれなさと折り合いをつける。

今日は『手の倫理』(著:伊藤亜紗)より「倫理と道徳」を読みました。

本節の主題は「そもそも倫理とは?」です。

前回読んだ「まなざしの倫理/手の倫理」で使われている「倫理」という言葉。

倫理という言葉を耳にすることはあっても、実際にそれが何を意味するのかを問われると答えるのは一筋縄ではいかないかもしれません。「社会規範」「超えてはいけない一線」「ある行動を実行に移すことができるとしても、すべきではないと判断する基準」など、でしょうか。

その輪郭と内実を端的に表現したとしても、現実に倫理と向きあうときには同時に「わりきれなさ」にも向き合うことになるはずです。

辞書で「倫理」という言葉を引くと、定義の中に「道徳」という言葉が含まれており、「道徳と倫理は同じ概念なのか?それとも異なる概念なのか?」という問いも浮かんでしまう。

「現代の複雑化した世界において、その区別はますます重要になってきていると思える」と伊藤さんは述べています。このメッセージを読んだときに、ふと「倫理は現実解。道徳は規範。」という言葉が降りてきたのでした。

それでは、一部を引用してみます。

 両者の違いを明確にするまえに、ひとつエピソードを紹介させてください。それは私にとって、その違いを痛いほど思い知らされた出来事でした。
 当時小学校三年生だった息子をつれて、アメリカに出張に行ったときのことです。ハーレーダビッドソンで有名なアメリカ中西部のウィスコンシン州、その中南部に位置するマディソンという湖畔の街で学会が開かれることになっていました。ホテルに到着し、買い物がてら街を散歩したときのこと。向こうから、四〇代くらいの太った女性がふらふらと揺れながらこちらに近づいてきます。乱れた身なりと手を差し伸べている様子から、物乞いをしようとしていることがすぐに分かりました。
 私はとっさに息子の手をぐいと引いて、その女性を避けるように通りの反対側に渡ってしまいました。自分ひとりならまだしも、子供もいる状況で、何かよくないことに巻き込まれたら大変だ。その一心でした。その直後でした。息子がパニックを起こしたように大泣きをし始めたのは。なぜ、お母さんはあの人を助けなかったのか。なぜ、かわいそうな人にあんな仕打ちをするのか。ぼくがもし病気になったり障害を持ったりしたら、みんなに冷たくされるのか。あの人は、すごく悲しそうな声で、「ソーリー」と言っていたじゃないか。あの声がぼくの心に残って離れない。とても悲しい。苦しい。そして、息子は何度もこう繰り返したのです。「この気持ちは一生残っちゃうと思う。お母さん、何とかして」。

「困っている人を見かけたとき、どのような態度を示すのか」

今回紹介されていたエピソードはとても考えさせられるものでした。

母親としての「危機回避行動」は、子供には「見捨てた」と映る。

「困っている人には救いの手を差し伸べるべきだ」という子供の価値観と、「救いの手を差し伸べるべきことは分かる。けれど、それは自分(達)に危険がおよばないとの条件付きでのこと。」という親の価値観。

その後、伊藤さんは救済措置としての税金や社会保障の仕組みを説明するもお子様には通じなかったようです。

論理と情理のはざまにある倫理。まさに、アリストテレスが言うところの「ロゴス・エトス・パトス」だな、と思ったのでした。ロゴス(Logic)は論理。エトス(Ethics)は倫理。パトス(Passion)は情理。

「何が正解なのか?」

絶対の正解がない中で「わりきれなさ」の極限で折り合いをつける。現実解を導く判断基準・プロセスが倫理ではないか。そのように思ったのでした。

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