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感情をコントロールしようとする無意識について。

好ましい感情を作り出そうとする意識というか、そんなものが私の中にはあるっぽい。

こういう時は、こういう感情になる。そのパターンを応用して、好ましくない感情が沸き上がってきたら、好ましい感情にすり替えるために、そうなった理由を考える。認識を変えてみたり、時には価値観を捨ててみたり。

どうしても望む感情に置き換えられないときは、納得できそうな、よくないけれど悪くもない感情に落ち着かせようとしてみたり。

だから、忙しいのだろうな。私の人生は。

疲労するのは、現実ではなく、つじつま合わせで忙しいから。そんな面倒なこと、やめてしまえばいいのにできないのは、それが無意識だから。

感情をコントロールする無意識が私にはある。

感情はコントロールしなくていい。
精神世界は自由だ。
価値観を変える必要もない。変えたところで、次のつじつま合わせが始まるだけだもの。

私は命であって、ドールではない。

好みのプログラムに沿えない自分を、嫌悪し、排除しなくていい。プログラムを守るために、命が存在するわけではない。

自由に生きるたいのなら、相応しいプログラムを採用すればいい。


それだけのことができないのは、悩むことを求めているからかもしれない。

感情は生きるために必要不可欠なものだけれど、濃度が高すぎれば生きずらいし、希薄になると息をするのも面倒くさくなる。

情動的な私の場合、そのバランスを保つために感情を抑制する方が早かった。ただ、そもそも抑えなければならなくなったのは、好みの自分がいるからだ。理想の自分。なりたい自分。

より良い自分になることは、悪いこととではないのだけれど、対極に「なれていないダメな今の自分」を作り出す。

「なれていない今の自分」ではなく、
「なれていないダメな自分」だ。

今の自分を否定している状態で新しい自分を望むことは、向上心ではなく不足を補うための義務になる。だから、なれない自分を責める。

なれていない今日の自分を認めたくなくても、それ以外の自分なんていないのに、不足を補おうとすると、どうしても理想が高くなるし、ギャップを埋めようとして、やればできるはずの自分をデフォルトにしてしまう。

当然、成功率は低く、失敗すれば自己否定が始まる。

なら、身の丈に合った目標に切り替えたり、今日できる程度に細分化して、今日のノルマをやればいい。

引き寄せの法則で、一気に手に入れば楽なのだけれど、ポジティブな未来を引き寄せたいなら、圧倒的にポジティブな興奮が必要な気がするので、当てにするより、大きな夢を見ずに、現実を積み重ねてゆく方が確実と思う。嫌だけど。

ずっと不思議だったことがある。

成功率が低く、相当な努力が必要になるにもかかわらず、なぜわざわざ「ダメ」な自分を採用するのか?

ダメであれば、できなくても仕方がないから。
ダメなのにできたら、とてつもなく嬉しいから。

夢想好きなので、ほぼ前者の理由なのだけれど、欲しいのは後者の感情。苦心の末の歓喜。

理解できなかったことが、わかる。
より辻褄の合う答え。

今の価値観を得た時の感動。それが間違いだったと否定することになるから、価値観に沿わない自分を認められないのかもしれない。

結局、過去の発見が偽りだったなんて思いたくないだけ?

悩みというのは、今の自分の思考、知識、経験では解決できないこと。

それを解決できた時の喜びが強ければ強いほど、その価値観に固執して、今の価値観でなんとか解決しようとする。結果、自分を縛ることになる。

認めたくないのは、自分が築いた価値観では、解決できないということ。

悩みはあるけれど、価値観は否定したくない。
それで、自分をダメなことにして、価値観を守ろうとしている、とか?

新しい解決の喜びを得られるチャンスなのにね。

新たな歓喜より、過去の自分が発見し、採用した価値観が、私は好きなのだろう。
好きすぎるのだろう。

そのために、成功しずらい目標を立て、今の自分をダメにして、なるべく新しいことはやらず、自分の中に変化を起こさないようにしてきた。

これまでの価値観を守るために。

文字にすれば単純なのにね。
文字にする必要すらないだろうな。
私以外の人なら、気づいていることだろうし。

楽をして生きる対価は、精神の犠牲なのかな?

現実より、気が楽な方がいいのかも。

現実にも、精神にも摩耗されず、
命が生き生きとしていられるような。

意識にとらわれず、自由で、
理由なんかどうでもいいと思える今日。

そのために価値観を変える。
今日の自分を認める。
感情をコントロールしない。

私は、当たり前のことができない。

建前はぎこちないし、本音がすぐにバレてしまう相手のための嘘でも、気持ちが悪い。マルチタスクはできないし、三つ以上覚えられないし、複数の視点とか、俯瞰とか、できる人の気が知れない。

それが、私だ。

人生がハードモードなのは、自分のスペックに合わない価値観で生きているからなのかもしれない。

私の周囲には、ハイスペックな人々がたくさんいて、優しかったのだろう。できない人に手を差し伸べることを当たり前だと思えるくらい親切な人々。

自分の価値観で相手をジャッジせず、非難するより、長所を見ようとしてくれたのかもしれない。バカは相手にしても仕方がないという割り切りかもしれない。

優しさって、残酷。自分だけが愚かだなんて、思いもしないんだから。

できないことはしない。それは、周りができるから私もして当然、からの解放。

つい自分を見誤る。やればできると思ってしまうし、苦労の末の喜びに価値を見出してしまう。
けれど、自分で作り出した価値観や、好みの自分像や、素敵な感情なんかに意味はない。

私の好む自分は、私を幸せにはしない。
今日の自分だけでいい。
欲しいのは、作為のない感情と精神の自由。

生きることを醜いと感じる感性そのままに、
現実を生きる。気楽に、囚われず。

それを可能にするほど広大な自由を、
精神に願う。

 fumori 


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