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「自分の内側で何が起きているのか、自分ではわからない」ことから始めてみる

世界的数学者である岡潔さんの思想を凝縮した選集である『数学する人生』という本を夢中になって読んでいます。岡さんは、ご自身の考えの中心に「情緒」という言葉を据えており、その上で「情緒とは何か」ということを様々な例を引き出しながら、その内実を読者の想像力に委ねている。

時々で道元大師の思想や松尾芭蕉の俳句が引用しながら紡がれていく言葉の数々がじつに美しく、繰り返し繰り返し岡さんの言葉を読んでいると、自分の内側で響く瞬間がふいに訪れるのです。

岡さんの言葉を少しずつ分かちあいながら、この内なる響きが自分だけに起こることではないと信じながら、しばらくの間、筆を進めてみます。

「自分」とは何でしょうか。
 西洋人は「自分とはこのからだである」といっているのですが、それは「自我」が自分であるといっているのと同じことです。
 ところが、自我に肉体を主宰する力などないことは、少し振り返ってみれば明らかでしょう。自我は思うままに食べ物を取り入れるし、排泄したくなれば、それを排泄する。ところが、何度もいいますが、自我にできるのはその両端だけで、その途中は少しもわかりません。
 このからだ、この心が自分だと思うのは間違いで、そんな考えは打ち消さないといけないということです。

『数学する人生』

自分のことは自分が一番わからない。日常生活において、自分の内側で一体何が起こっているのか意識することは稀だと思います。「今日は何だか体が軽いな」や「今日は何だか頭がスッキリする」など、その「何だか」に支えられて私たちは日々を過ごしている。

その「何だか」のすべてを意識的にコントロールしようとしたならば、一体どれほどのことを考え、実践しなければいけないのでしょうか。人間の身体はおよそ60億もの細胞で構成されているわけですが、それらの細胞が有機的に協調して健康な状態を保っている。これはホメオスタシス(生体恒常性)と呼ばれていますが、細胞が入れ替わりながら、日々の状態がゆらぎながらもあるべき状態に戻ろうとする力が働いているわけです。

自分の意識ではコントロールできない世界が自分の内側に広がっている。そのことに気付くだけで「あらゆる物事は予測でき、コントロールできる」という考えから少しずつ距離を置いてゆけるように思うのです。

 人というのは、大宇宙という一本の木の、一枚の葉のようなものです。だいたいそう見当をつければよいでしょう。逆に、宇宙という一本の木の一枚の葉であるということをやめたなら、直ちに葉は枯れてしまいます。(中略)木の葉自体は秋が来れば落ちますが、冬になっても木はあります。その木から、また芽が出て、葉が出てくる。真の自分は木だから、不死です。不生不滅です。ところが、葉としての小さな自分 - これを仏教では「小我」といいますが - これは死ぬのです。
 ともかく、木から生命が来て、葉に伝わるから葉は生きている。これを断ち切ったら、生命の来るところがありませんから、ただちに死んでしまいます。

『数学する人生』

「不生不滅」とは仏教で語られる概念です。不生とは「ある時点で生まれたものではなく、一番はじめからある」ことを表し、生まれたものではないとしたら滅することもない。大宇宙の主宰性に支えられた本当の自分(真我・大我)は決して死なないことを仏教では「不生不滅」と言うのだそうです。

考えてみれば、自分自身は無の状態から生まれたのではなく、親の存在がいて、親の親がいて…という文脈の上に存在している。そして、遡れば宇宙の始まりにまで遡り、もしかすると宇宙が始まる前に遡って…と推論してみると、不生不滅の言わんとする内容がほんの少し自分事として捉えられるかもしれません。

自分自身という存在は「関係性」に支えられているということ。岡さんは、真の自分を木に例えていますが、木もまた木自身を取り巻く環境に支えられている。木の中を通った何かが葉となって表れ、枯れ果て、また新たな葉が現れるという循環がある。姿形は変われども、その変化や循環を支える幹は変わらない。そう思うと、自分自身という存在は、ある種の「器」のようにも思えてきます。自分の中に何かが流れ、その何かを運んでいる。

葉は枯れてもいい。現在の自分がまとっている葉、枝葉末節にこだわらずに循環的に変わり続けること。岡さんの紡ぐ言葉が今日も美しく響きました。

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