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「社会」という言葉の「手触り」

今日は『手の倫理』(著:伊藤亜紗)より「蟻のように」を読みました。

本節の主題は「社会とは何か?」です。

なぜ「蟻」が本節の表題に登場するのか。その理由は人類学者のブルーノ・ラトゥールが提唱した「アクターネットワーク理論(Actors-network-theory)」に関係しています。Actor-network-theoryの頭文字をつなげると「ANT」つまり「蟻」になります。

では、このANT理論とは何か。ラトゥールは社会的なものを「つなぎ直し、組み直していく固有の動き」として定義しています。蟻は地面を這い、跡を追ってまとまって動く生き物です。高みの見物をすることはありません。

「道徳と倫理」を「一般と個別」という対比で捉えた場合、俯瞰的な捉え方を「一般」、目の前の何かに焦点を当てる捉え方を「個別」に対置することができます。つまり、蟻は後者の「個別」の比喩として用いられています。

アナロジー(比喩)というのは、不透明な何かに直面したときに歩みを進める足場になってくれます。一方、一歩間違えばそれに囚われてしまうこともあります。たしかに蟻は「つなぎ直す・組み直す」という表現に適した生物だな、と思うのでした。

それでは、一部を引用してみます。

 取り上げたいのは「社会」という言葉の使われ方。これを問題にしたのは、人類学者のブルーノ・ラトゥールです。「社会的な要因」「社会的なつながり」「社会に出る」「社会が彼を犯罪者にした」......。確かに私たちはきわめて曖昧な仕方で「社会」という言葉を濫用しています。
 しかし、そもそも社会とは何なのか。「大きな物語」「一億総中流」といった言葉がとっくに効力を失い、経済的、宗教的、人種的分断が進み、ネット上では国家さえ凌ぐほどの人の動きが起こっている今、果たして「社会」という言葉を、私たちは信頼に足る言葉として使い続けることができるのかどうか。ラトゥールは言います。「帰属意識が危機に瀕している。しかし、この危機から目をそらすことなく、新たな結びつきに目を向けるために、社会的なものに対して別の概念化を行う必要がある」。ラトゥールは、このような問題意識から、社会的なものを「つなぎ直し、組み直していく固有の動き」と定義し、アクターネットワーク理論(Actor-network-theory)を提唱しました。
 本書は、社会そのものについて語るわけではありませんが、このような蟻の姿勢と、ガイド本のような現実との関係を、ラトゥールから学びたいと思います。「人間とは」「身体とは」「他者とは」といった一般化された言葉から始めるのではなく、「他人の体にさわる/ふれる」という具体的な行為を通して、倫理について考えていくこと。「まなざし」の距離がとれないような状況で、「接触」というこれ以上ないほど即物的な行為のなかから、人の人に対する振る舞いの別の可能性を探りだすこと。

あらためて「社会」とは何なのでしょうか。

ふと「社会という言葉の手触り」というフレーズが頭に浮かんできました。

社会は何か具体的なモノのように直接的に触れることができるわけではありません。どちらかというとボンヤリした何か。空虚な何かのようなイメージかもしれません。社会という言葉を耳にするとき、どこか「人ごと」のように感じられてしまうというのか。

一方、日常の中で自分が誰かと接する。そこには一人一人の顔がある。会話をしたり、すれ違ったり。形は違えど「同じ時間と空間を共有している」という関係でつながっている。

誰かと挨拶したり会話するのは直接的な関係。すれ違った誰かに対して何かを働きかけるわけではなくとも、巡りに巡って、そのすれ違った誰かに働きかけることになるかもしれない。それは間接的な関係。

そうした「循環やつながり」が具体的にイメージできると「社会という言葉の手触り」が感じられるような気がします。

そう考えると「社会」という言葉は器のようなもので、人それぞれ思い描く「社会」に対するイメージを「社会」という言葉が一身に受け止めている。

「社会」という言葉を用いるとき、あるいは耳にするとき。そのときに思い浮かぶ人の顔の数だけ、社会という言葉の手触りがあるような気がします。

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