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パフォーマンス・アートについて

私は2000年代に世界各国を飛び回って「パフォーマンス・アート」の分野で活動した作家です。その間、さまざまな経験をしました。

パフォーマンス・アート・フェスティバルの多くは国際的ですが、それはそのままグローバリゼーションの産物でした。芸術家自身が、国と国との間を移動しなければならないからです。それは、コロナ禍による移動制限と共に実質的に終わりました。ただし、オンラインによる作品発表は続いており、私の関わる限りでは、舞台芸術や音楽のライブ、各種イベントのオンライン化、インターネット上のヴァーチャル・ギャラリーやヴァーチャル・ミュージアムより早かったように思います。

パフォーマンス・アート・フェスティバルの時代は、1990年代後半〜2020年ごろまでで、一つの区切りがついたと思います。自分の経験の整理と、この分野の言語化をしたいと、私は考えています。

特に日本の場合、芸術は言語ではないという、一般的な誤解があります。勿論、詩のような言語芸術はありますけれども、それ以外の美術や舞台芸術、音楽、そしてパフォーマンスなどは言語ではないという誤解です。

ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の「序」にはこのように書かれています。

したがって(思考されたことの表現の)限界は言語においてのみ引かれうる。そして限界の向こう側は、ただナンセンスなのである。

(野矢茂樹訳、岩波文庫)

欧米は、芸術を言語によって批評し、理論的に分析して捉える作業をしています。最近見せてもらったのはニュージーランドの芸術家で、PhD の学位論文にパフォーマンス・アートを主題として取り上げていますが、硬派な学術論文であり、評価できます。

フランス現代思想、フーコーやドゥルーズ=ガタリなどにしても、日本の場合は「新人類」などと言って結局何ら成果を出さないエンターテインメントとして消費されてしまったのに対して、アメリカはロザリンド・クラウスなどの批評家が、同時代の芸術分析のために、フランス現代思想を換骨奪胎して、理論的に言語化する作業をやっているのです。

今日においては、アメリカなどでも、批評は終わってしまっているのではないかという疑いがありますが、日本ではさらにその前から批評が死んでいます。

東浩紀さんなどの活躍を、私は評価しますが、YouTubeでゲンロンカフェなどを拝見すると、批評をワイドショーのお喋りのレベルに落としているのです。東浩紀さんの仕事は「批評の死」の上に立脚しているのではないか?

未だに知的欲求を持つ人々はいますが、周囲に議論をするような相手がほとんどいない。ゲンロンカフェは議論したい欲求を持った視聴者たちの代わりに議論をしてみせて、彼ら彼女らの欲望を満足させる。スラヴォイ・ジジェク的に言うなら「ゲンロンカフェは《大文字の他者》として象徴的登録の媒体を体現しているのだ」と言えます。これがゲンロンカフェのからくりです。

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パフォーマンス・アートもまた、学問的に研究されなければならない。そしてその表現そのものが、言葉の真の意味での芸術の成立を、探求しなければならないと思います。

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