イエス・キリストの死と対象a / 信仰という行為を考える
イエス・キリストは磔刑に処せられた時、こう言っています。「マタイによる福音書」と「マルコによる福音書」に記述がありますが、内容はほぼ同じです。
宗教の問題は複雑で、さまざまなご意見があるでしょうが、ここでは一解釈として書きます。
結果的に神はイエス・キリストを助けなかったのです。キリストは十字架の上で亡くなりました。彼を信じてついてきた人々は大きな喪失感を味わったでしょう。
しかしその喪失を根底に置いて、キリスト教は成立します。使徒たちはキリストの死を受け入れられなかったのです。
精神分析家のジャック・ラカンは彼のセミネールでJ=A・ミレールの質問に答えて、次のように語ります。お断りしておくと、キリスト教についての言説ではありません。主体というものについて言った言葉を私が援用しているだけです。
難しいテクストですが、私なりに解釈をして、キリスト教に当てはめてみます。
キリスト教は失われた神、対象a(アー)を主体の根底に据える事で、キリスト教的主体を作り出しました。キリスト教的主体は常に空隙、対象aとしての神を求めます。それは「欲動のうちに現前するもの」です。神を求め続けることによって、主体が形づくられます。
信仰という行為を心理学的に解釈すると、信仰の中にある主体は、固定されたものでなく、運動し続けるものとして成立するものではないでしょうか?
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新約聖書の「使徒言行録」で、ステパノが聖霊に満たされて言う言葉は、
日本語だと「見える」と受動的で、自然と神が姿を現したかに読めますが、古代ギリシャ語原文は「私は見ている(θεωρῶ)」と能動的で、「天が開いて」も「切り開かれている天を οὐρανοὺς διηνοιγμένους」であり、ここには「普段は閉じられている天が、力づくで開かれている」というような意味合いがあります。
これは強烈なステパノの幻視体験なのです。
神は、棚からぼたもち的に、何もしないで待っていれば現れるものでなく、能動的に見ようとして見るものだと、このステパノの体験の記述は示しているように思います。
祈りとは能動的で意志的なものです。雑念が生じても、それを打ち破って、集中して行く行為が祈りなのです。
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