水についてメディテーションしてみました。。。っていう話です。
神のコトバが命じると、水は退いて、乾いた所が現れた。
神はこれを「地」と名づけた。そこに、わたしたち人間は、置かれている。
神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。
創世記1:9-10 新共同訳
乾いた所。そこはまた「渇き」を覚えさせられる場所だ。
体の大部分が水から成る人間は、水を飲まなければ生きられない。
しかし、鼻から息を吸って生きる人間は、すっかり水に覆われた場所では、やはり生きられない。
水が退いた、乾いた所に置かれて、喉の「渇き」を覚えるゆえに、湧き水に手を伸ばし、掬して飲むことで、人間は生きられる。
清水を飲めば、その瞬間「渇き」は癒される。
しかし、しばらくすれば、また「渇き」を覚える。
なぜなら、乾いた所で生きているのだから。。。
この「渇き」は、だから、まったく消え去るということは、ない。
渇きのために水を求める祈りは、そのまま、人間が「神」を求める祈りに重ね合わされる。
たとえば。。。
。。。家を追われたハガルが、砂漠の真ん中で死につつある幼子のために、水を求めて叫び求めた祈り。
。。。エジプトを脱出して、荒野を彷徨するイスラエルの民が、渇きのために水を叫び求めた祈り。
。。。詩人王ダビデが、干上がった谷間で水を探していななく鹿に、自らの渇きを見て詠った祈り。
このように、祈る人間とは、渇いて叫ぶ人間の姿だ。
新約聖書の光の中では、人間の本質に「霊的な渇き」があることが、はっきり示されている。
イエスは、いくら水を飲んでも癒されない本質的な「渇き」があなたにある、とサマリヤの井戸辺で女に告げた。
その上でイエスは、「わたしが与える水を飲む者は、けっして渇かない」と言った。
乾いた地で、渇きを覚えつつ、水を求めて生きるよう定められた人間は、「霊的な渇き」を通して、命の水の泉であるイエスへ方向づけられている。
この「渇きのベクトル」は、わたしたちの在り方を根底から規定している。
わたしたちは、乾いた所で、渇いては飲み、渇いては飲み、また渇いては飲むことを、繰り返しつつ、この癒し難い「渇き」がついに癒されることのできる地点であるイエスに向かって歩み続ける。
わたしたちは今日も、そういう生を生きている。
今日の聖書の言葉。
渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。
ヨハネによる福音書 7:37-38 新共同訳
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