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悪魔のささやきを、いかに退けるか、っていう話です。

生きる、ってことは、選択をし、判断をする、ってこととイコールなんだろうなあ、と思う。

まあ、ほとんどの選択や判断は、無意識にやっているけれど。。。

でも、厳密な選択、厳密な判断を求められるモメントって、あるよね。

ハートがドキンとなって、え、どうしよう、これ、待って。。。ってなる、みたいな瞬間のことだ。

今日の聖書の言葉。

だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。
ヤコブの手紙 4:7 新共同訳

ハートがドキンとなるのは、どうしてかというと、たぶん、自分の無意識のなかに刻印されている「良心」をマインドが参照して、その選択、その判断、ちょっと待ったー! ってストップをかけるからなんじゃないかと思う(諸説あります)

その「良心」っていうのが、いったいなぜすべての人間に生まれながらにして備わっているのか、っていうことについては、定説はたぶん無いと思うんだけど。。。

自分はクリスチャンなので、神の指が自分のココロのなかに「良心」を刻印してくれたんだ、という聖書の説明の仕方を受け入れている。証拠聖句がこれだ。

たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
ローマの信徒への手紙 2:14-15 新共同訳

もし、自分という存在がシンプルな存在であるのなら、心のなかに「良心」のシグナルが点灯して、その選択、その判断、アブナイデスヨーってなったら、ささーっと軽やかに危険を回避するだろう。

しかし、実際にはどうだろうね。。。

なんか、こう、あまーくて、くらーくて、じとーっとした、催眠性の謎の空気感みたいなものに自分が飲み込まれてしまって、アブナイデスヨーって言われているところの間違った選択、間違った判断へ、どんどん吸い寄せられて行ってしまう。。。

そういう経験に照らしてみると、自分という存在はシンプルではなくコンプレックス(複雑)だなー、って感じるんだけど。。。

おもしろいことに聖書は、そのコンプレックスを自分そのものから切り離して、外部化しているんだよね。

それが、自分の外部にある誘惑する存在としての「悪魔」だ。

生きる、ってことは、選択をし、判断をする、ってこととイコールであるわけだけど。。。

それは言い換えれば、生きる、ってことは「悪魔」の誘惑に直面すること、って言うこともできるわけだよね?

自分は今日も平常運転だ。それはつまり、今日も背後から音もなく忍び寄る闇の誘惑に自分は直面させられる、ってことを意味している。

それがやって来た瞬間は、すぐわかるんだ。

だって、あまーくて、くらーくて、じとーっとした、催眠性の謎の空気感みたいなものに飲み込まれながらも、ハートにはアブナイデスヨーってアラートがピコピコ鳴り響くわけだからさ。

そのときは、ボーっとしていたら、ただただ、やられっぱなしになってしまうよね。

イエスにおける「神」に祈って、聖霊のパワーをもらうしかない。なぜなら、自分はあまりにも弱いので、パワーをもらうこと無しには、正しい選択、正しい判断をするのが難しいからだ。

わたし(イエス)を離れては、あなたがたは何もできないからである。
ヨハネによる福音書 15:5 新共同訳

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