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そいつらが。。。追いかけて来る。。。
生きている上で、過去を変えることは、できないし、未来を支配することも、できないよね。。。
過ぎ去ってしまった後ろは、自分では、どうにも変えられない。
これから向かって行く先も、自分では、思い通りにはできない。
前方と後方、どうにもならないもののはざまで、生きている現在が、ある。
そういう状態に置かれている感覚を、ハイデガーは「不安だ!」、キルケゴールは「絶望だ!」、サルトルは「嘔吐する!」と、表現した。
けど、ちょっと、ものの見方を変えると、世界は、眼前に全然違った光景で、開けてくるんだ。
今日の聖書の言葉。
命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。 主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。
詩編 23:6 新共同訳
この聖書の言葉を、文字通り、まじめに受け取るならば。。。
自分が生きて行く。すると、過ぎ去った後ろから、なんと。。。恵みと慈しみが、追いかけてくる。恵みと慈しみは、人生の途上で、ついに追いついてきて、自分は、恵みと慈しみにとらえられてしまう!(とらえられてーぜ)
自分が生きて行く。前には、主の家=神の家が、でーんと待ち構えている。神様が、イエスさまが、先に天国に召された仲間たちが、はやくおいでよ、ここはいいところだよー、って、手招きしてる!(はやくいきてーぜ)
これが、聖書が描く「人生」の姿だ。。。
恵みと慈しみに追いかけられながら、天国に接近して行く。
この人生観が、ほっこりするところは、主の家にたどりつくまえに、力つき、地面にしゃがみこみ、動けなくなっていると、後ろから、そいつらが、ずんずん近づいて、追いついてくる、そして、そいつらが、自分を飲み込んでしまうことだ。。。
もちろん、そいつらとは、スティーヴン・キングの『ランゴリアーズ』* ではないよ。。。恵みと慈しみだ!
註)
* 「ランゴリアーズ」(The Langoliers) とは、ホラー小説の大家スティーヴン・キングが時間をテーマに書いた中篇小説 Four Past Midnight, 1990 に含まれる1篇に登場する、過去からやって来て「古びた現在」を食い尽くし、無に帰する、虚無の怪物である。これは、大量の廃棄された「現在」によって、なぜ宇宙が埋め尽くされてしまわないのか、それは、廃棄物処理係がいるからではないか?というキングの想像に基づいている。しかし、キリスト教神学の立場から言えば、大量の廃棄された「現在」は、すべて神の記憶の中に格納されるのである。そして、神の記憶の容量は無限であるから、何も問題がない。重要なのは、神は全能者なので、神の記憶の中に格納された、廃棄された「現在」(それが過去である)を、自由自在に改変し編集することができる、ということである。つまり、人間は過去を改変することはできないが、神の恵みと慈しみは、過去を改変することができる、ということだ。
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