自分に言い聞かせる。普遍から特殊じゃないだろ。特殊から普遍だろ、って。
悪魔はもともと天使だったんだけど、どういうわけか天使から悪魔になっちゃったんだよね。
そのいきさつについて聖書は多くを語らない。
語らないってことは、そこに興味を持っちゃいけないよってことなのかもしれないけど。。。
よく言われるのは、ある天使がいた。その天使にあたえられた神の恩寵は、あまりにすばらしかった。そのため、彼は自分がほかの天使よりも「えらい」と錯誤するようになった。そればかりか、もっと進んで、自分は神より「えらい」とすら思うようになった。。。
その結果気づいたら悪魔になってたっていう説。
これって、仏教で言う「増上慢」に似てるなーと思った。
【増上慢】 自分を過信して思い上がること。また、そういう人や、そのさま。(by デジタル大辞泉)
自分にとっては、原初的にも一義的にも直感的にも経験的にも、存在しているのは「自分」だけなんだよねー。
もうね、どこまで行っても自分だけの世界。自分。自分。
このため、世界の中心は自分であると錯誤してしまう。
これに対して、「神」は普遍中の普遍だ。メタのなかのメタ。超メタ。絶対的な普遍と言ったらいいだろうか。
その神があたえてくれる恩寵は、だからやっぱり普遍なんだよね。
あらゆるものに変わりなく差別なく等しく永遠に注がれる神の恩寵。
ところが、恩寵を受け取る「自分」は自分がイチバンだと錯誤している。
このため、神の普遍的な恩寵は、自分だけの特殊なものと勘違いしてしまうのだ。
なんかこう、普遍を特殊にコンバートしてしまう仕組みが「自分」にあるんだろうね。
この仕組みのせいで、悪魔の勘違いが起きてしまったのかもしれない。
普遍をどんどん特殊に転換して行きたい。そうすることによって自分イチバン・自分エライ・自分サイコウ・他者はバカの世界を強化したい。。。
。。。というインセンティブが自分にあるに違いない。てか、あるし。。。
でも、今日の聖書の言葉は、その真逆を行くんだよね。それは特殊から普遍へ向かうベクトルだ。
今日の聖書の言葉。
神のひとり子であるイエスの十字架と復活の出来事によって、神と人類のあいだの障壁が取り除かれ、神の霊(聖霊)が人類に注がれるようになった。
その結果、自分は聖霊を受け、聖霊に満たされることができるようになった。これはハートで感じることができる主観的な経験だ。
主観的という意味では、聖霊を受けることは、原初的で一義的で直感的で経験的な「体験」なんだよね。
だから、それはすぐ「自分」だけのものとして特殊化されやすい。特殊化されると、その先には自分イチバン・自分エライ・自分サイコウ・他者はバカの増上慢が待っている。
しかし、今日の聖書の言葉は、勘違いしないでね! と釘をさすんだ。
あなたがたは、自分が神の神殿であり
神の霊が自分たちの内に住んでいることを
知らないのですか
釘がささっている箇所は「あなた」じゃないよ、「あなたがた」なんだよ、というところ。
聖霊は普遍的な恩寵だ。だから、自分が聖霊を受けるという経験と、他者であるAさんが聖霊を受けるという経験は、存在の根底においてつながっている。
Aさんだけじゃない。Bさんも、Cさんも、Dさん、Eさん、Fさんも。。。いや。神の恩寵は普遍的だから、全人類、全宇宙の住人、全被造物にすらつながっているはず。
イエスの十字架・復活・聖霊によって、すでに特殊は普遍に解放されている。だから、普遍を特殊に変換するなっていうこと。
ひるがえって自分をかえりみてみると。。。
普遍を特殊に変換してばっかいる自分に気づかされる。
なので自分に言い聞かせる。
普遍から特殊じゃないだろ。特殊から普遍だろ。特殊→普遍。特殊→普遍。存在の根底、宇宙的な神殿、全被造物の救済だろ。みんなイチバン、みんなエライ、みんなサイコウ、悪魔バカだろ、って。
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