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どうやって試練に耐える? っていう話です。

あー、試練だ、って思う時、その「試練」っていう表現自体に、すでにポジティブな意味が込められているよね。

だって、試されることによって鍛えられる、っていうのが原意だから。

基本、マッスルであれ、メンタルであれ、スピリチュアルであれ、なんでも鍛えられることは良いことじゃん? 

今日の聖書の言葉。

わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。
ヤコブの手紙 1:2 新共同訳

ただ、じゃあ、試練に遭ったからといって、すぐそれを喜べるか、って言うと、それはね。。。なかなかハードルが高いと感じる。

だって、どんな試練でも「喜んでー」とか言って受けてたら、変態かよ、って思っちゃうじゃん。。。

神の本が言ってるように、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出す、っていうのは、まあ、確かにそうだろうなあ、とは感じるんだけど、でも、重要なポイントは「希望」だよね *。

苦しみに耐えられるかどうかは、希望次第による、ってところがあるんじゃないかと思う。

どういうクオリティの希望かによって、よし、じゃあ、この試練に耐えるぞ、っていう意気込みが左右されるんじゃないだろうか。

自分がクリスチャンとして抱いている希望は、結局のところ、復活に置かれているよなー、と思う。

イエスにおける「神」は、全人類の過去・現在・未来の罪障をひとつ残らずその身に負って、十字架で贖罪の死を遂げ、それにより完全な罪の赦しをわれわれに与えてくれた。

それだけじゃあない。イエスは三日目に死者のなかから復活することによって、神が本来意図する人間性がどういう姿になるかを体現してくれた。

それは、マッスルにおいても、メンタルにおいても、スピリチュアルにおいても、なにひとつトラブルが無いという理想の状態だ。なにしろ、栄光に輝く身体性だからね。

で、イエスに結ばれた人類は、イエスが十字架を通って復活に達したのと同じコースをたどることによって、復活の栄光に達する、と神の本は言っている。

神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。
コリントの信徒への手紙一 6:14 新共同訳

トラブルだらけの人生で、トラブルをやり過ごして、それでも生きて行こうと思えるのは、最終的にはあらゆるトラブルから解放される、というゴールが設定されているから。。。それが「希望」だ、ということになると思うんだけど。。。

完全にトラブルから解放された境地について、神の本はこう描写している。これだ。

見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。
ヨハネの黙示録 21:3-4 新共同訳

こういうふうになる地点が、人生のいちばん最後のところにスケジュールされていて、だから、今日この瞬間を生きることによって、一歩ずつ、一歩ずつ、その地点に近づいている。。。

。。。っていう「希望」がなければ、とてもじゃないけど耐えられそうもないよね、腰痛も、ひざの痛みも、そして、世界のありさまに対するこの心の痛みも。。。

註)
Cf.  ローマ 5:3-4

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