痛みと恐れは、世界の中立性とセットになっていて、それが、人間の行動の自由、意志の自由の保障になっているんじゃないか、という話です。
どうしてこの世界には恐れや痛みがあるんだろう。。。
っていうことを、中学2年から、ずーっと考えていて。。。
いまも、考え中。。。
今日の聖書の言葉。
愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。
ヨハネの手紙一 4:18 新共同訳
いまのところ、大きな影響を受けている考え方が、あって。。。
それは C.S.ルイスの『痛みの問題』という本で示されている考え方なんだけど。。。
どういう考え方か、というと。。。
1.人間の霊魂には意志の自由があたえられている。
2.意志の自由は「世界の中立性」で担保されている。
3.世界の中立性から不可避的に事故が生じる。
4.事故を感知して対処するために「痛み」の感覚がある。
5.痛みの経験の蓄積から「恐れ」の念が形成される。
6.恐れによって予防行動することで事故を回避できる。
と、まあ、こういう考え方なんだけど。。。
これを、ルイスは、棒切れを使って説明している。
A夫がB夫に腹を立て、棒切れを手に取って、B夫に殴りかかる。
すると、神が介入して、棒切れがグニャグニャのコンニャク状態になる。
いつでも、こういうことが起きるため、A夫はB夫を殴ることができない。
これが、神がつねに介入することによって「世界の中立性」が保たれなくなってしまった場合のありさまだ。
人間の行動に神が介入する都度コンニャク状態になるのは、棒切れだけではない。
棒切れがダメならテキストで、ということで、A夫がSNSでB夫への誹謗中傷を書き込むと、すぐ神が介入して、美辞麗句に書き換わってしまう、みたいなことに。。。
こういう世界では、だから、行動の自由が存在しない。行動の自由がないから、人間の意志の自由もないことになるよねー。
世界の中立性という考え方は、なぜこの世界で「奇跡」がマレにしか起きないか、ってことの説明にもなってるんじゃないか、と思う。
世界の中立性が保たれているのであれば、棒切れは棒切れであり、針は針であり、ナイフはナイフであり、自動車は自動車だ。
コンニャクにはならない。その結果、事故が起きることになる。
だから、たとえば、体に針が刺さったら、すぐ感知して針を抜かなきゃ、生存できなくなっちゃう。
このため、事故を感知できるように「痛み」が要請されることになり、痛みの積み重ねが「恐れ」となり、恐れによって事故を回避することになる。
痛みと恐れは、世界の中立性とセットになっていて、それが、人間の行動の自由、意志の自由の保障になってる、ということなんだけど。。。
残念なことに。。。
聖書は、人間が神から離反して、意志の自由を誤用するようになった、と言っている。
その結果、人間は、世界の中立性を悪用して、もっぱら他者の自由を侵害するために使うようになった。。。これが「悪」なんだけど。。。
カインがアベルを野原に呼び出して、手に石を取ったとき、石はコンニャクにならなかった。そして、アベルの意志の自由は、奪われた。。。
しかし。。。
じゃあ、この世界は、絶対かつ永遠的に中立性が保たれるのか、というと、そうでもない、と思うんだ。
もちろん、神が、神の勝手な意向で世界を曲げることはしないし。。。
逆に、人間が、人間の勝手な意向で世界を曲げることもできない。。。
基本、世界は中立であり続けると思うんだけど。。。
でも、あるひとつのイシューについて、神の意向と、人間の意向が、完全に合致した場合には、世界は曲がる、と思うんだ。
だって、両者が合致していれば、神の自由も、人間の自由も、損なわれないもんね。
神と人間が愛によって結ばれるには? というイシューがあって、そのパッケージのなかに、愛・罪のゆるし・聖霊・永遠のいのち、など、いろいろなものが、ぜーんぶはいっている、とする。。。
そのパッケージがイエス・キリストだ、と自分は思っているんだけど。。。
神の側が、そのパッケージをあたえたい、と思い。。。
人間の側が、そのパッケージを受け取りたい、と思い。。。
で、両者の意向が完全に合致した瞬間、世界は曲がる、と思うんだ。
こういうふうにだ。
わたしは、彼らの不義を赦し
もはや彼らの罪を思い出しはしない *
註)
* Cf. ヘブライ 8:12
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?