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ガタッ。。。キタかッ。。。ていう話です。

マターリとしていたら、いきなり「わたしだよ!」って家人が帰ってきて、ビクッ、ってすること。。。

あるよね。。。

まあ、べつに、やましいことをしていなくってもさ。。。

やましいことをしてたら、ビクッ、どころじゃないし。。。

ガタッ、かな。。。

ドサッ、とか。。。

ガラガラドッシャーンッ、か。。。

今日の聖書の言葉。

あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。
ルカによる福音書 12:40 新共同訳

早く帰って来るんなら、早く帰る、って言ってくれりゃあいいのに。。。

逆に、この時間に帰る、って言ってながら、いくら待っても帰って来ないっていうのも、どうなんだろうね。。。

さんざん待たせて。。。

こっちも、だから、油断して。。。

のんびりして。。。マターリとして。。。

で、忘れた頃を見計らったかのように、「わたしだよ!」って帰って来る、って言う。。。

心臓に悪いよ。。。

新約聖書を読むと、イエスは再臨する、って言っている。

イエスは十字架にかかり、全人類の罪をあがない、復活し、天に昇り、やがて、世界の審判者として到来する。

ふたたび到来するイエス。それが「再臨」だ。

問題は、そのタイミングだよね。。。

イエスの弟子たちは、再臨をいまか、いまか、と待ち望みながら、福音を伝え続けた。

しかし、十字架と復活の出来事から 20年ぐらい経過した頃から、弟子たちは思い始めたんだ。。。

「あれ? 再臨、遅くね?」って。

すぐ戻る、と言いながら、いつまでたっても戻らないイエス。。。

いったい、なぜなんだろう?

ここから、聖書に書いてあることと現実とのあいだの矛盾をすりあわせる作業が始まったんじゃないだろうか。。。

そのすりあわせが「神学」の営みのはじまりだと自分は思っている。

そして、その作業の成果は、新約聖書にも反映されているんだよね。

たとえば、これ。

主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
ペトロの手紙二 3:8-9 新共同訳

ここは、再臨がなぜ遅れているのかを、まさに説明している箇所だ。

どう説明しているか、って言うと。。。

世界の審判者であるイエスは、到来を遅らせることによって、ひとりでも多くの人間が救われるように配慮している、っていう説明をしているんだ。

一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと
あなたがたのために忍耐しておられるのです

この説明のユニークなのは、ここだよね。

主のもとでは
一日は千年のようで
千年は一日のようです

遅いなあ。。。約束の時間より 3,000年ぐらい遅れてるじゃん!! 

。。。って言っても、「神」からしたらまだ3日しかたっていない、っていう。。。

つまり、神サイドでは、特に遅れている、ってわけでもないんだよね。。。

だって、3日だもん。。。

じゃあ、遅いなあ、って感じているのは。。。

遅いと感じているのは、この自分なんだよね。

遅いなあ。。。どうせイエスなんて来るわけないじゃん、って、たかをくくって、それを罪をおかす口実として生きるのか。。。

それとも。。。

遅いなあ。。。でもそれは、自分が悔い改めて「神」に立ち返るために与えられている猶予期間だと受け止めて生きるのか。。。

どっちを選ぶかで、生き方が変わるよね。。。

まあね。。。そんなこと言っても。。。

どうせイエスは今日も戻ってこないだろうって。。。

マターリしようよ、マターリと。。。

。。。

。。。

ガタッ。。。

キタかッ!?

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