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親父。。。オレのこと、どう思ってんのよ?

むかーし、あるスウェーデン人から、こんな話を聞いた。。。

その人が、友だちとキャンプに行ったんだって。

友だち。仮にAさんとしよう。。。Aさんは、会社を経営してて、人生のすべてをお金を稼ぐことに注力してた。そして、大きな成功を収めてたんだ。

でも、キャンプの焚火にあたりながら、Aさんが、こう告白したんだって。。。

Aさんが18歳のとき、一生懸命バイトして、中古車を購入した。ディーラーからの帰り道、自分でその車を運転しながら、期待に胸をふくらませた。「父さんに最初に見てもらうんだ! 息子が頑張って人生最初の車を買ったことを、きっと大喜びしてくれるに違いない!」って。

。。。ところが家に着くと、父親は玄関から一歩も出ないどころか、窓から車をのぞくことすら、してくれなかった。。。

その日から、Aさんはワーカホリックになった。そして、ずーっと働き続けて中年になり、会社を経営するまでになったのに、どんなにお金を稼いでも、心が満たされることは決して無いんだ、って。。。

切ないなあ。。。

今日の聖書の言葉。

義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
マタイによる福音書 5:6 新共同訳

もし、自分の生き方を、父親が心の底から喜んでくれたら、これにまさる「人生の満足」は、無いんじゃないかと思う。

でもねー。。。すでに父親が死んでる、という場合。。。自分もそうだけど。。。それだと、親父、オレの生き方を喜んでくれてんのかな、どうなのかな、と、墓石の前でつぶやくことしか、できない。そして、答えは聞こえては来ないよね。これも、切ない。。。

「義」というのが、父の心の満足、ということであるのならば。。。自分は父を満足させることが、できなかったなあ、という意味の「義に飢え渇く」という感覚は、けっこうな人が持ってるんじゃないかな、と思う。自分もそうだし。。。親父を完全に満足させる、なんて、まあ、できないよね。

新約聖書の場合は、肉親である父というスクリーンを透過して、「天の父なる神」にフォーカスして行く。

肉親の父を満足させることすら、途方もなく難しいのに、まして、「天の父なる神」の心を満足させることなんて、できるんだろうか? 

新約聖書の衝撃的なメッセージは、なんと、父なる神の心は、いま・すでに、完全に満足されている、というのだ。

いったい、どうやって? その答えは。。。

神の愛するひとり子であるイエスが、父なる神の心に応えて、十字架の死を遂げ、復活したことにより、父なる神の心は完全に満足している。そして、父なる神は、その完全な満足の適用範囲を、イエスひとりから、人類全体に拡大して適用してくれる、というのだ。

このロジックを、新約聖書は端的にこう言ってる *。

信じる者は皆
この方(キリスト)によって
義(父なる神の心の満足)とされるのです

十字架の死に至るまで父の心に従い通したイエスが「義」とされた、つまり、父なる神の心の完全な満足となった、というのは、まあ、そりゃ、そうでしょうね、と理解することができるけど。。。

その「義」が、無関係に思えるこの自分に転嫁される、というところが、新約聖書のミステリーだ。神の義が人間に転嫁される、というロジックは、神が決めたロジックなので、われわれの意向に関係なく、神はそれを押し通して来る。。。なぜなら、神だから。。。

墓石に向かって、「親父。オレのこと、満足してる?」と尋ねても、答えは返ってこない。

だけど、天の父なる神に向かって、同じことを尋ねると、こういう答えが、わたしたちひとりひとりに、返って来るんだ **。

あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者

註)
*  Cf. 使徒言行録 13:39
**  Cf. マルコ 1:11


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