呪っては、いけません、ゆだねるのです。
敵と思っているひとから敵対行為を受けた時は、ある意味、冷静に対応できるよね。だって。。。敵だから(笑)
パニックになるのは、理解者と思っていたひとが、わけもわからず突然、敵に回って来たとき。。。
詩人王ダビデは、そういう状況に立たされた心の苦しさを詩編55編で吐露している。
楽しく親しく交わっていた友人知人。それが敵に回る。。。
信じていたのに。。。だからこそ、怒り100倍、いや、1000倍。。。
なので、ダビデはこうつぶやくんだ。「死ねばいいのに」
いやー。それはクリスチャンとしてはダメだよね。まちがっても「死ねばいいのに」なんて思っちゃダメ。
イエスも言ってる。敵を愛し、迫害する者のために祈れって *。愛は敵に勝ち、死に打ち勝つということを、十字架と復活をとおして身をもってイエスは見せてくれたし。
でも、イエス到来の1000年前に生きたダビデ王に、そのレベルの信仰姿勢を要求するのは難しいかもしれない。だから自分の気持ちに正直にダビデは言っちゃう。「死ねばいいのに」
今日の聖書の言葉。
「死ねばいいのに」と言ってたはずのダビデも、ついには自分の苦しい心を神にゆだねようとする。同じ詩編55編のなかでの、この急展開。
あなたの重荷を主にゆだねよ
重荷を抱えてちゃダメ。神にゆだねるんだ。絶対に大丈夫。神は支えてくれるはず。神は自分が動揺しないように永遠に支えてくれるから。だから、ゆだねよう、ゆだねるんだ、って。。。
重荷を神にゆだねて、平安を得られました! でこの詩編が完結していれば、実にこれは1000年後のイエスの福音に踏み込んだはずだったんだけど。。。
しかし、残念ながら「ゆだねよう」と言った直後、ダビデはこう結ぶんだ。
って、ちっとも、ゆだねてないじゃん!(笑)
イエスの十字架と復活によって、怨嗟と呪詛の人生からわれわれは解放されることができる。イエスから1000年前を生きたダビデは、その解放の福音を、はるか遠くに仰ぎ見て待ち焦がれていたはずなんだ。
ひるがえって自分はどうだろう? イエスの十字架と復活から2000年後に生きる自分は、ダビデに比べて素晴らしいアドバンテージを与えられている。だって、もう「解放」を手にしているんだもん。
だから、自分の心が旧約聖書に記された「呪いの詩編」に逆戻りするようなことがあっちゃダメだよね。。。と、自分で自分に言い聞かせながら今日もやってみる。ゆだねよう、ゆだねよう、心の重荷を、ゆだねてみよう。。。
註)
* Cf. マタイ 5:44, ルカ 23:34
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?