#965 理知は感情への奉仕者である、っていう話です。
自分が属している教会はプロテスタントのメソジストという教派の系統のひとつだ。
しかも、ちょっとユニークな出自になっていて、19世紀の終わりにロンドンのスラム街から発祥したという経緯がある。
その創立当初に重視されていたのが、理知に照らすのではなく、感情を揺り動かす説教をする、ってことだった。
理由は、読書をするとか長い講演を聞くとかに全く不慣れだったスラムの住人に適合した形で福音を伝えようとしたため。
なので、けっこう大げさな感情表現を説教のなかでやってたらしい。
初期の歴史の本を見てみると。。。
高壇の上で縄抜けの奇術をやって「イエスによって罪の縄目から解放されよ!」って叫んでみたり。。。引田天功かよ。。。
あるいは。。。
説教壇の上に立ち、会衆めがけてダイブしながら「神の愛の大海に飛び込め!」と叫んでみたり。。。ヘビメタのコンサートかよ。。。
でも、まあ、エネルギッシュにスタートしたムーブメントも、年輪を重ねるにつれ、だんだん落ち着いて来るわけで。。。
いまでは、創業時代にやっていた無茶苦茶なパフォーマンスは、すっかり消えてしまった。
そりゃあね。。。157歳にもなってダイブしたら、骨折するし。。。
しかし、消えないで、いまもなお残っている要素が、いくつかある。
そのひとつが、礼拝のなかで手を叩きながら歌う、ってことだ。
今日の聖書の言葉。
19世紀末の創業当初には、けっこうな迫害を受けたらしい。
たとえば、路傍伝道をしていると、コショウを詰めた「バクダン」を投げつけられたり、石やレンガでアタマをカチ割られたり。。。
だから、女性の伝道者は鉄板を仕込んだボンネットという婦人帽をかぶるようになった。いまで言うヘルメットだね。
なんでそんなに迫害されたかというと「礼拝の中で手を叩くのはケシカラン!」ってことだったとのこと( ;゚Д゚)
19世紀末の社会というのは、いまと全然違って、人間が感情をオモテに出すのは下品なこと、と考えられていたフシがあったみたい。。。
なので、日曜日の礼拝は、しずーかに、まじーめに、だまーって、理知的な説教を聞いて、それに対して理知的に応答する、ってことが最高の礼拝のささげ方だと思われていたようだ。
そんなもんだから、礼拝でハレルヤ!と叫んだり、手を叩きながら歌ったり、喜びのあまり踊ったり、っていうのは、クリスチャンのあるべき姿として全然ふさわしくない、って評価されたんだろうねー。
でも、だからといってコショウのバクダンを投げつける方が、よっぽどクリスチャンらしく無いと思うんだけどさ。。。
不思議なことに、旧約聖書を読むと、神にささげる礼拝というのは、ほんと、豊かな感情の表現にあふれていたんだなー、ってわかる。
今日の聖書の言葉も、それだよね。
すべての民よ、手を打ち鳴らせ
神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ
「すべての民よ」って呼びかけているわけだから、これは、神を礼拝するすべてのひとに対する要請なんじゃないかと思う。
で、何を要請しているかというと。。。
手を打ち鳴らし、喜び歌い、ハレルヤ!と叫び声を上げよ、ってことだよねー。
しかし、まあ、ほんとに本気でそれをやれるのか、ってことになると。。。
それは、自分のハートの熱量によるんじゃないかと思う。
今日の礼拝、だるいなー、と感じていたら、そりゃあ無理だよね。
だから、冷たく固く凍ったような自分の「感情」を溶かすために、理知でもっていっしょうけんめい考えてみる。。。
理知だろ、理知。考えろ、考えるんだ。。。
神が人となって来てくれた。それがイエスだ。。。
イエスは全人類の身代わりに十字架にかかり、復活してくれた。。。
だから、過去・現在・未来のすべての罪が赦されて、永遠の命が与えられるんだ。。。
それだけじゃあない。神はイエスを通して「神」のすべてを与えてくれた。。。
「神」とセットでこの宇宙のすべての祝福を、いま・もう・すでに・すべて・与えてくれているんだ。。。
それがぜーんぶほんとうだとしたら、喜ばないでボーっとしている理由なんて、どこにもないよね?
。。。っていうふうに、理知を使って考えて行くと、なんだかだんだん「感情」があたためられて、熱くなって来て、ついには湯気がたってくる感じになる。
そうなったら、おもむろに叫んでみるんだ。ハレルヤ!って。
というわけで、トマス・アクィナスばりに言ってみよう。
哲学は神学への奉仕者である。
そして
理知は感情への奉仕者である。
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