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完全主義と、完全の追求、そして、ベッドについての話です。

生き方のタイプとして、完全主義者と、そうでないひと、っていうのがあると思う。

完全主義であっても、そのなかで
 ①自分に厳しく他人にも厳しい
 ②自分に厳しく他人にやさしい
 ③自分にやさしく他人に厳しい
っていう三種類に分かれるんじゃないだろうか。

自分はどうかというと、自分にやさしく他人にもやさしい、っていう完全主義の対極に位置するんじゃないかなーと思う。モットーは、ゆるーく、ね。でもまあ、過去には ②に近い状態のときもあったかもしれない。

完全主義って言っても、どういう完全を目指すか、っていうことで、また生き方が変わって来るよね。

ギリシャ神話にプロクルーステースという悪党が出て来るんだけど、彼は鉄のベッドを持っていて、通りがかった旅人に「休んでいきませんか?」と声をかけてベッドに横たわらせ、その身長がベッドからはみ出す場合は足を切り落とし、逆に、身長がベッドより小さければ万力で足を引き延ばしたんだって。。。

ひどいのは、実はそのベッドは伸縮式だったこと。プロクルーステースは旅人が来るのを遠くから眺めて身長を見積もり、鉄のベッドが絶対に合わないように調節してたらしい。これは、完全の基準が自分の都合で変化して、その矛先は他者にだけ向かう、っていう悪しき完全主義の見本みたいな話だ。

今日の聖書の言葉。

あなたの僕を驕りから引き離し
支配されないようにしてください。
そうすれば、重い背きの罪から清められ
わたしは完全になるでしょう。
詩編 19:14 新共同訳

聖書は、完全主義はダメだ、とは言っていない。むしろ、完全になりなさい、って言うんだよね。そもそもイエスがこう言ってるし。

あなたがたの天の父が完全であられるように
あなたがたも完全な者となりなさい
*

「完全な者となりなさい」ってイエスが言うんだから、そのイエスに従いたいと願うクリスチャンたちが完全を追求するのは当然なんだけど、ここでやっぱり、完全の定義、ってことが問題になって来る。

もし、完全を追求して、その結果、完全ではない他人を見下すようになってしまったら、それは果たして完全の追求として成功していると言えるんだろうか? 

いや、そうじゃないでしょう、というヒントが今日の聖書の言葉に示されている。キーワードは「驕り」だね。

あなたの僕を驕りから引き離し
支配されないようにしてください

自分の目に自分は完全に見えるから、他者を見下してしまう。これが驕りであるわけなんだけど、驕りがどれほどオソロシイかって言うと、神が創造した完璧な作品であった天使が「オレ、完全じゃね?」という驕りのために高慢になり、結果、悪魔になってしまった、って言うぐらいオソロシイのだ。クワバラ、クワバラ。。。

じゃあ、そういう危険な驕りを取り払ったあとに残る「完全」って、いったいどんな完全なんだろう? 

それについては18世紀の伝道者であるジョン・ウェスレーの考察が参考になるんじゃないかと思う。

ウェスレーはイギリス全土を馬で回って路傍説教したひとなんだけど、病人の看取りをしてくれと行く先々で頼まれた。当時は、ほとんどのひとが病院に行かずに自宅で死ぬ時代。しかも、病気の痛みをやわらげる麻酔も無かった。だから、臨終に際して多くの病人が激痛に苦しんだんだ。

看取りの様子をウェスレーは日記に克明に書いているんだけど、それを見ると、最初の1週間ぐらいは病人は体力があるので、こんな苦境に自分を追い込んだ「神」に怒りのコトバを投げかけるひとが多かった。怒りどころじゃない。神に対する憎悪と呪詛だ。

ところが、死が近づくと、怒りのエネルギーが尽きて来る。すると今度は、死に対する恐怖に突き落とされるのだ。圧倒的な恐怖による絶望。。。

しかし、ほんとのほんとに死が近づくと、恐怖のエネルギーすらも尽きてしまう。この地点まで来たら、病人はもう自分を「神」にゆだねるしかなくなる。だから、そうする。完全にゆだねるのだ。。。

するとそれは、微塵の驕りもなく自分をイエスにゆだねる、ということになる。だって、驕れる要素がぜーんぶ剝ぎ取られてしまったあとだから。そのようにしてゆだねた瞬間、病人は「完全な愛」を体験する。顔を輝かせて「こんなにすばらしい愛があるとは、知らなかった!」「愛、愛、ただもう愛しか感じません」と言いながら息を引き取るのだ。。。

ウェスレーはこういうケースをたくさん看取りながら、こう考えるようになった。それは、われわれが追求するべき完全とは「完全な愛」だということ。しかもそれは、神から注がれる完全な愛だ。そして、その完全な愛は、自分を完全に神にゆだねた瞬間にあたえられる。。。

ここでのアイロニーは、驕りが取り去られた時に、完全な愛を体験できる、ってことだろうね。今日の聖書の言葉が言っているのは、まさにそれじゃないのかなー、って思う。

あなたの僕を驕りから引き離し
支配されないようにしてください
そうすれば、重い背きの罪から清められ
わたしは完全になるでしょう

なので、自分はアイツよりマシな人間だ、神さま、自分はアイツのような人間ではないことを感謝します、って思いそうになるときには、ココロのなかでアラートを叫ぶ。オレ、このままだとサタンになっちゃうよー、って。

逆にココロが落ち込み、自分に失望し、失望どころか絶望的な気分になるときは、むしろこう思うようにしている。愛だろ、愛。自分を神にゆだねるんだ。これこそ神の「完全な愛」を体験する好機じゃないか、って。

註)
*  Cf. マタイ 5:48

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