見出し画像

至福直観

小さな幸せ、というと、いまのシーズンだったら、モンブランを食べることかなあ。。。栗のペーストをアルプスの山「モンブラン」にみたてて高く尖らせて盛ったケーキ。今年の秋は、まだ、食べれていない。

中ぐらいの幸せ、というと、コロナ禍が終息して、また旅行ができるようになることかな。。。今年は通訳業務で行くはずだった出張が全部中止になってしまって、さびしいかぎりだ。

大きな幸せ、というと、それは「神の顔」を見ることだ。神学的にはそれは「至福直観」と呼ばれている。人間にとって、この上なく最高のよろこびは、創造主である御方の顔を、じかに見ること。。。そのよろこびは、永遠の分量があるから、その要請で、人間には永遠に生きることが、どうしても必要になる。

今日の聖書の言葉。

命の道を教えてくださいます。 わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます。
詩編 16:11 新共同訳

神の顔とは、具体的には、神がひとの姿となって現れたイエス・キリストだ、ということになるんだけど、クリスチャンたちは、むかしからイエスの顔を思いめぐらして、絵に描いてきた。

自分が Pinterest で集めている、好きなイエスの絵は、こんな感じ。

自分がどうやってイエスの顔を見るか、については、この先、ルートが3つに分岐している。。。

1つ目は、自分が生きているあいだに、イエスが再臨した場合。。。このルートに進んだ場合は、新約聖書のテサロニケの信徒への手紙一に描かれているシーンが実現し、よみがえったクリスチャンたちと共に、イエスの顔を仰ぎ見ることになる *。

2つ目は、自分が死んだ場合。。。この先、何年ぐらい生きられるかは、ほんと、神のみぞ知る、だけど、与えられた人生を最後まで走り抜いて、息を引き取る。。。ヘブライ語で息(ルーアハ)は「霊」という意味があり、ギリシャ語でも息(プネウマ)は「霊」という意味があって、つまり、息を引き取る、とは、霊魂を神様が引き取ってくれる、ということなんだよね! 神が創造したものを、神が引き取る。。。その結果、自分はイエスの顔を仰ぎ見ることになる。

3つ目は、これは、レアなルートだけど、夢やビジョンのなかでイエスの顔を見る場合。。。まれに、クリスチャンの中には、イエスさまが夢に出てきた、とか、目を覚ましている時にイエスさまのビジョンを見た、とか言う人がいる。これは、主観的な経験なので、それが本物かどうかは、確かめるすべが無いんだけどねー。。。

まあ、どういうルートを取ったとしても、最終的には、永遠の世界でイエスの顔を見ることになるわけだけど、そのとき、自分は、どう感じるんだろうか。。。

あー、やっぱり、想像していた通りの顔だ!と思うのか。。。

うーん、なんか、ちょっと、イメージしてたのと違う、と思うのか。。。

えー、不思議、この顔、ずーっと昔から知ってた、おかしいな、見たことないはずなのに、見たことがある、どうして知ってるんだろう? と思うのか。。。

自分的には、いちばん最後のやつではないかな、と思っている。

註)
* Cf. テサロニケ一 4:13-18

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?