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見られている、を、意識する

このコロナ禍にあって、求められていることは、一に忍耐、二に忍耐、三四がなくて、五に忍耐。だけど、考えて見れば、三四もおそらく忍耐だろう。

社会的隔離のなかで、だれも見てないところで、自分をコントロールして、日々やるべきことを、粛々とやっていく。やり続ける。これが、求められている「忍耐」だと思う。

他者の視線に常にさらされる環境に身を置けたら。。。それは、ある意味、非常に楽ちんだ。無意識に意識する他者の視線が、自分の言葉も行動も、自動的に抑制してくれるから。

でも、他者の視線が無い環境。このコロナ禍の社会的隔離においては、自分を自動的に抑制してくれる恩恵は、無いよね。

クリスチャンの場合、「自分は神に見られてる」ということを、考える。ていうか、意識して考えるように努める。なぜ、その努力が必要かというと、神は、目に見えないから。。。

今日の聖書の言葉。

主を求めよ。 主の裁きを行い、苦しみに耐えてきた この地のすべての人々よ 恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ。 主の怒りの日に あるいは、身を守られるであろう。
ゼファニヤ書 2:3 新共同訳

古代ユダヤ人の歴史においては、「神様、どこにいるの? なんで助けてくれないの?」と絶叫するほどの苦難と災忌が、これでもか、と繰り返された。だから、神なんて、いないんじゃないか? いたとしても、神は、ぜんぜん見てくれてないんじゃないか? という疑念が生じた。その疑念は、旧約聖書の詩編にも、あちこちに、ちりばめられている。

その疑念に悩まされつつも、それでも、自分は神に見られている、と意識しながら、言葉と行動を、やっていく。それが「主の裁きを行い、恵みの業を求め、苦しみに耐える」ということなんだと思う。

『教会の祈り』(時課)では、きょうは使徒トマスをおぼえる祝日になっていて、「読書」のところで、こういうことが言われていた。

見える事実は、もはや信仰の対象にはなりえず、認識の対象にしかならないからです。
聖グレゴリオ1世教皇の『福音講話』より

ほんと、これよな、と思う。見えないことを、信じて、行為する。それが、たいせつなんだ。

家族や隣人が見ている前でやる、自分の言動は、「見せる体」だから、自分のほんとうのキャラクターと解離することが、あるよね。

だーれも見ていないところでは、ほんとうのキャラクターが出て来る。でも、そこで、目に見えない神がいる、ということを意識することによって、言葉も行動も、ほんとうのレベルで、変えられていくんだ。

そのようにして、表と裏のちがいが無い人間になって行く。行きたい。行けるよな。行きたいものです。行かせてください。。。

今日の聖書の言葉にある「主の怒りの日」というのは、ひとの表と裏のちがいが、全宇宙的に暴露される日、という、超巨大文春砲みたいなものだけど。。。表と裏のちがいが無い人にとっては、「ほーん、表と裏のちがい? なんですか、それ?」という話なので、なにも困ることがないんだよね。


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