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ウクライナのニュースを聞きながら、「いじめ」の問題について考えてみた、っていう話です。
自分は小学生のとき、いじめられていたので、人間にはなんで「いじめ」があるのか、ということをよーく考える。
今日の聖書の言葉。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
マタイによる福音書 5:10 新共同訳
自分の脳内では、迫害=いじめ、に変換されてしまうんだけれど。。。
でも、そうすると今日の聖書の言葉は、いじめを受けたらハッピーと思え、って解釈することになるよね。
そんなふうに思えるか、って言うと。。。
んなもん、思えるわけないやん、マゾか!(笑)
しかし、それでは身も蓋もないので。。。
ちょっと思考シミュレーションをして「いじめ」の原因を考えてみよう。
もしもの話だけど、人類社会が 50人ずつからなる2種類のコミュニティーであったとして。。。
2つの対照的なコミュニティーを想定する。。。
ひとつは利己的な遺伝子を持つひとたちのコミュニティーだ。
彼らのプロトコール(生きる上でのみんなの約束事)は「自分が生き残るために他者を犠牲にする」こと。
その結果は、お互いがお互いを滅ぼし合うので、早晩このコミュニティーは自滅してしまう。
なので、人類歴史のバックヤードには利己的な遺伝子の墓標が地平線の彼方まで続いているのかもしれないねー。
これと対照的なのが利他的な遺伝子を持つひとたちのコミュニティーだ。
彼らのプロトコールは「他者が生き残るために自分を犠牲にする」こと。
その結果、お互いがお互いを助け合うので、このコミュニティーはいつまでも生き残れる。
さて。。。
もし、今を生きるわれわれが後者の子孫であるとするならば。。。
じゃあ、なんで、利他的なコミュニティーに「いじめ」が起きるのよ? ってことを考えなきゃいけないことになる。
それについては、考えられ得る説明が2つあると思うんだ。
ひとつは、利他的なコミュニティーに利己的な個人Aが現れた場合。
その場合、利他的なコミュニティーはAの行動を抑圧してコミュニティーの危機を回避するために「いじめ」という手段を発動することになる。
もうひとつは、利他的なコミュニティーにほんとのほんとに利他的な個人Bが現れた場合。
Bは「他者が生き残るために自分を犠牲にする」というプロトコールを体現したような人物だ。
だから当然のことながらBがコミュニティーの最高のポジションをゲットすることが確実視される。
でもそれは同時に、ほかのメンバーたちにとって、自分たちのポジションが相対的に低下することを意味することになる。。。
そして、そこが問題なんだよね。
もしその時に、ほかのメンバーたちに謎のスイッチが入って、こう考えてしまったら?
「オレたちのポジションが低下しないために、Bが犠牲になるべきだ。Bが犠牲になることは、Bにとって真の利他の行になるはずだ」
この謎のスイッチが入ってしまうと、利他的なコミュニティーにおける「いじめ」が発動するんじゃないだろうか。
しかも、Bはその「いじめ」を利他の行としてひたすら耐えるよう要求される。。。ある意味、地獄だよね。。。
以上のように考えると、利他的なコミュニティーにおいては、利己的な個人であっても利他的な個人であっても同様に「いじめ」を誘発することになるから、結論から言うと、いじめは解消できない、ってことになる。
その結論も、地獄かよ!
この状態を補正するには、利他的な遺伝子をさらに利他的な方向に強化するしかないわけだけど。。。
でも、自然選択による見えざる神の手を待っていたら、何百万年もかかるだろうね。
なので、速攻で補正するには、リボ核酸の遺伝子ではなく、感染する情報としてのミームすなわち文化的意伝子によるしかないんじゃないだろうか。
で、そこで役立つミームの宝庫が「聖書」なのではないか、と自分は思うんだ。
たとえば、これ。
兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
ローマの信徒への手紙 12:10 新共同訳
このミームに感染すると、コミュニティーのなかで自分のポジションが下がることを普通に受け入れられるようになる。
だって「相手を優れた者と思う」わけだから。
さらに、これ。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。
テモテへの手紙一 1:15
このミームに感染すると、自分のポジションが最低つまり「罪人のかしら」であると自覚すると同時に・その事実によって・自分はイエスによる救いにあずかっている、と認識するようになる。
だって「イエスは罪人を救うために世に来られた」わけだから。
この感染のポジティブな効果は、コミュニティーのなかの相対的な価値評価から解放されて自由になれることだ。
最低にポジショニングすることで、評価のフレームは意味を失うからねー。
一方、この感染のネガティブな効果は、自分は罪人のかしらだ!という事実に開き直って悪を行うひとがいるかもしれない、ということ。
この最後の問題については、聖書はこう言っている。これまたミームなわけだけど。。。
だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
ローマの信徒への手紙 12:17-21 新共同訳
このミームに感染すると、復讐心という利己的な動機をポジティブなアウトプットに変換して、相手に善を行うことができるようになる。
こういう精神感染性のミームの宝庫である「聖書」は、神から人類に提供されてすでに数千年を経ている。
それによって、人類社会というコミュティーは、もっともっと利他的になることができるんだろうか?
この実験は本日現在も進行中だ。。。
どうか世界の政治のリーダーたちが、こういうミームに感染してほしいものだよね。でないと、セカイノオワリになってしまうもの。
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