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属性の融通は間違いだということを重々承知の上で、でも時々考えてしまうこと

遠藤周作の『深い河』という小説がある。

人生の同伴者としてのイエス・キリストを小説で描き出そうとしたものだ。

この小説では、おもしろいことに、イエス・キリストが、いろいろな人に、いろいろな場面で、いろいろな姿を通して顕現するんだ。

たとえば、九官鳥とか、ベルリッツの英語講師のガストン氏とか。。。

キリストは、いろんな姿になって、わたしたちの人生に寄り添ってくれる。。。という遠藤からのメッセージを、自分はこの小説から読み取った。

まあ、この小説には、他の解釈の仕方とか、それこそ批判とか、いろいろあるんだろうけど。

でも、なんか、楽しいじゃない? イエスさまが、ほんとうに予期しない時に、予期しない姿で、予期しない方法で、自分に寄り添ってくれてるのかもしれない、という不思議な期待感を持たせてくれるんだよね、この小説は。

どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。
イザヤ書 26:4 新共同訳

神は、九官鳥になることができるのか? 英語講師になることができるのか? 。。。それは、自分にはわからない

けれど、少なくとも新約聖書は、荒れ野を彷徨するイスラエルの民を守り導くために、かつて、イエス・キリストが「動く岩、水を出す岩」に姿を変えたことがあった、と主張していることは、確かだ。

彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。
コリントの信徒への手紙一 10:4 新共同訳

モーセに導かれて、イスラエルの民がエジプトを脱出したのが、紀元前1230年頃のこと。で、イエス・キリストが到来し、十字架にかかり、復活したのが西暦30年4月7日だそう。こちらは、国立天文台の計算による *。

つまりねー。。。イエス・キリストは。。。自分はこの方が人間の形を取っておいでになった神であると信じているけれども。。。十字架と復活の出来事から先立つこと1200年前に、「岩」となってイスラエルの民を助けていた、ということになるんだ。

しかも、この岩は、動く。イスラエルの民が荒れ野を移動すると、岩があとからついていった。そして、この岩が水を出して、民の飲み水になった、というんだ。

そんなことが、できるのか、って? そりゃ、もちろん、神だから、人間になることもできるし、だったら、岩になることもできたんじゃないか、と思うけれど。。。

でも、重要なことは、そこではなく、もっとエキサイティングなことだ。

つまり、あのロシアの童話『靴屋のマルチン』みたいな状況が、わたしたちの人生で、ほんとうに起き得るかもしれない、いや、いまもう起きてるのかもしれない、ということだ。

自分は、ひとりぼっちで、だれも見てない、と思ってたけど、あのとき、すれ違った、あの人が。。。この時、出会った、この人が。。。いや、人だけでなく岩や鳥や猫が、もしかしたら、自分の人生にひっそり寄り添って歩いてくれているイエスかもしれない、ということなんだ。すごくない?

というか、気を付けたほうがいいかもしれない。。。だって、ほら、いま、あなたの後ろに、イエスがいるかもしれないから。

『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
マタイによる福音書 25:37-40 新共同訳

註)
* 相馬、谷川(清)、佐藤、谷川(惠)、落合『キリスト処刑の日の特定』

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