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ほんとはコワーいイエスの言葉。。。

イエスの言葉って、よーく注意してみてみると、けっこうコワイところがあるんだよねー。

ちょっと見ソフトに感じるけど、深堀りしてみるとガチでキビシメだった! というふうなのがある。

今日の聖書の言葉なんて、その代表格だと思う。

今日の聖書の言葉。

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
ヨハネによる福音書 20:21 新共同訳

平和があるように! 

とってもいい感じじゃない? 

すぐ、アーメン、ハレルヤー、感謝しまーす、ってリアクションしちゃう。

でも、そういう反応をするまえに落ちついて考えないと、トンデモナイところに連れて行かれてしまうかもしれないから、気を付けて!

なので、深堀りしてみよう。。。

まず、これだ。

【イエスは重ねて言われた】 イエスは同じことを二回繰り返して言った。「とっても重要だから、よーく聞いて、しっかり受け止めてね」というメッセージの前置きだ。のんびりボーッと聞いててはイケナイことを言うから注意してね、ってこと。これだけで十分コワイ。

【あなたがたに平和があるように】 こころがほっとする言葉。平安。。。神のシャローム。。。が、あなたに豊かにあるように。この言葉がすっごい祝福に満ちてるもんだから、われわれのフォーカスはぜーんぶ、ここに持って行かれてしまう。だからすぐリアクションしてしまう。アーメン、ハレルヤー、感謝ですー、って。でもね、問題は、この続きなんだ。

【父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす】 はい。コワイとこの核心が来ました。さらっと言ってるから聞き流しちゃうけど、絶対聞き流しちゃいけないところだ。父なる神が、ひとり子イエスを、人類の救いのために遣わした。。。はい。そうです。認めます。。。じゃあ、その「遣わし方」は、どんなふうだったの? ということ。ここに気を付けないとイケナイ。なぜなら、父なる神がイエスを遣わしたのと「同じ方式」でイエスはわれわれを世界に遣わす、と言ってるんだから。

では「同じ方式」について、さらに深堀りしてみよう。

父なる神は、ひとり子イエスを、人類の救いのために、どのように世界に遣わしたのか。。。

① 子なる神であるイエスは神としての在り方を捨てなければならなかった。

② イエスは聖霊によって母マリアに宿った。マリアは結婚前にみごもったため、露見したらマリアもイエスも社会的制裁を受ける惧れがあった。

③ イエスは両親の移動途中に馬小屋の飼い葉おけで生まれた。これは現代の文脈で言えば、深夜の長距離バスのターミナルのトイレで出産するようなものだ。

④ 生まれたばかりのイエスは、王位簒奪者の疑いをヘロデ王からかけられて殺されそうになり、両親とともに海外に亡命した。イエスを特定できなかったヘロデは同地域の同年齢の幼児を見境なく殺戮した。これは現代の文脈で言えば、母国での大量虐殺を逃れて海外難民になるようなものだ。

⑤ イエスは「神の身分」でありながら寒村の大工のせがれという立場に身を置いて両親に仕えた。安息日にシナゴーグへ行って礼拝することと祭礼でエルサレムに巡礼することを別にすれば、イエスは毎日仕事場に出て朝から晩まで大工の仕事に打ち込んだ。

⑥ 30歳になったイエスは自分の時がきたことを知り、バプテスマのヨハネから水の洗礼を受け、荒野に行って40日間断食した。「神の身分」であるのだから、全能の力を行使して石をパンに変え、空腹を満たすこともできたはずなのに、イエスはその力をけっして自分のために使わなかった。

⑦ イエスはその力を使って多くの他者を癒し・解放し・満腹させ・蘇生させたにもかからわらず、弟子たちの半数はイエスを離れ去り、故郷の村人や親族はイエスを敬おうとはせず、宗教指導者たちはイエスを敵視した。

⑧ イエスが冒涜罪の嫌疑でユダヤの最高法院に逮捕されると、弟子のうちヨハネと女性たちをのぞく全員がイエスを見捨てて逃げ去った。

⑨ イエスは父なる神のみこころにしたがい、人類の罪の身代わりとなって十字架にかかり、手と足を釘づけられ、苦しみの末、死んだ。その苦しみのあまりイエスは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という絶望の叫びをあげた。

⑩ イエスが三日目に復活して弟子たちに姿をあらわしたとき、弟子たちは大喜びしたが、復活のイエスを目で見てなおも疑う者たちもいた。

これが、父なる神がイエスを世界に遣わしたときの方式だ。これでも、かなり割り引いて書いているつもり。

以上を踏まえてのイエスの言葉に注意しよう。

父がわたしをお遣わしになったように
わたしもあなたがたを遣わす

「同じ方式」でイエスはわれわれを世界に遣わす、と言う。なんのために? イエスが神の子・救い主・キリストであることを証しさせるために。

思うに、福音書記者マルコは「同じ方式」ということの重みをよーく理解してたんじゃないだろうか? だからこそ、マルコは彼が書いた福音書の末尾を、この言葉で閉じてるんじゃないのかな *。

だれにも何も言わなかった
恐ろしかったからである

「同じ方式」で、いきまーす、と一方的に宣言されたら、自分も何も言えずにオソロシサしか感じないと思う。そのオソロシサのただなかで、イエスは平和。。。神のシャローム。。。をわれわれにあたえよう、と言う。

まあ、これほどのオソロシサのなかで、なおも平安でいられるような平安があたえられるというのであれば、その平安こそほんとうの平安なのではないかと思うけど。

註)
*  Cf. マルコ 16:8

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