見出し画像

#995 セカンドチャンスはある?ない?っていう話です。

日本人は、失敗をゆるさない・失敗はゆるされない、って感じてしまうひとが多い、ってよく言われるけど。。。

だから、失敗を極度に恐れて最初から何もしない、あるいは、大きな失敗をしたために恐怖症に陥って動けなくなる、っていうのを見聞きする。

自分にもそういうところはあるよね。

そりゃあ、まあ、日本人だからって全員が失敗恐怖症ってわけでもないとは思うんだけど。。。

でも、そうやって失敗を恐れて生きている方が、この島では生き残れる確率が高かった、ってことの裏返しなのかもしれない。。。

ってことはさ、ご先祖さまはこの島で過去にいったいどんな大厄災を生き延びてきたんだろう、っていうオソロシイ想像をしてしまう。。。

きっと、信じられないぐらいの大厄災を何度も何度も通り抜けて自分にまで命をつないでくれたに違いないんだ。

そうじゃなきゃ、自分はなんでこんなに失敗が怖いのか説明つかないもん。

今日の聖書の言葉。

神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
ローマの信徒への手紙 3:25 新共同訳

これに対して、ほかの国ではわりあい失敗に寛容だ、ってことを聞く。

まあ、あまりにも寛容すぎてグダグダになっちゃってるんじゃあ? って思わなくもないんだけどさ。。。

おっと、これ以上の表現は自粛しよう(汗)

どうしてそんなふうに失敗に寛容になれるんだろう、って思ってしまう。

で、もしかして、もしかしたら、今日の聖書の言葉は、そういうことに関係しているのかもしれないなー、って思った。

神はこのキリストを立て
その血によって信じる者のために
罪を償う供え物となさいました
それは、今まで人が犯した罪を見逃して
神の義をお示しになるためです

失敗について、たぶん2種類の対照的なカルチャーがあるんじゃないのかな、って思う。

ひとつは、失敗して「スミマセン、失敗しました」って告白すると、その失敗したひとをコミュニティー全員が全力で叩きに行く、っていうカルチャー。

もうひとつは、失敗して「スミマセン、失敗しました」って告白すると、セカンドチャンスをあたえて、ゴッドブレスユー、次は上手くやれよー、って励ますカルチャー。

失敗したひとをコミュニティーから排除する、っていう方法は、同じ失敗を二度と繰り返さない・繰り返させないためには、それなりに有効だろうなあ、って思う。

でも、弊害として、失敗した場合にくらうペナルティーを恐れて、だれも新しいこと・変わったことに挑戦しなくなるんじゃないだろうか?

あるいは、ペナルティーを回避するために、失敗した事実を徹底的に隠ぺいするようになってしまうんじゃないだろうか?

これは、ほんと、難しい分岐ポイントだよね。。。

これに対して、失敗してもセカンドチャンスをあたえるコミュニティーであれば、同じ失敗を繰り返すひとが出てきちゃう弊害はあるとしても、新しいこと・変わったことに挑戦するインセンティブは強くなるんじゃないだろうか?

まあ、これについては諸説あります。。。

これからこの先、人類がさらにながーく発展の道のりを歩んで行くためには、いったいどっちのカルチャーがベターに働くんだろう?

自分的には、だれでも・どんなひとでも・セカンドチャンスがあたえられる、っていうカルチャーのほうが、どんどんイノベーションが生まれて、コミュニティーが発展して行くように思えるんだけどね。。。

でも、失敗をゆるさない、っていう姿勢をみんながつよーく打ち出しているコミュニティーにあっては、それでもセカンドチャンスがあるよー、って言い続けて行くっていうのは、逆風を浴びるよなー、って思う。

だから、そのためにはボスが率先してセカンドチャンスがあるよー、って言わないとダメだと思うんだ。

問題は、そういうボスがいるかどうか、ってことなんだけど。。。

少なくともこの宇宙のボスはOKみたいだよね。だって、こう言うわけだから。。。

それは、今まで人が犯した罪を見逃して
神の義をお示しになるためです

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?