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イエス、わたしの光

生活の中で、自分の心の闇に向き合わされる瞬間が、時々おとずれる。

そういうとき、心の扉を開いて、外の光をパーッと取り入れることができたら、なんと幸いだろう。だって、闇は光に打ち勝つことができないから *。

今日の聖書の言葉。

主はわたしの光、わたしの救い わたしは誰を恐れよう。 主はわたしの命の砦 わたしは誰の前におののくことがあろう。
詩編 27:1 新共同訳

イエス・キリストは、わたしの光だ。

イエスが光である、というテーマについては、まえに深く掘り下げて、考えて見たことがあるんだけど。。。

聖書をいろいろ読んでいると、そして、第二神殿時代のユダヤ教(後期ユダヤ教)の文脈を合わせ考えると、「イエスは神の栄光シェキナーだ」ということになる、と自分は理解している。

「イエスは神の栄光シェキナーだ」ということであるなら、論理的に考えれば、旧約聖書の主人公は、ずっとイエスだった、ということになるんだよね。。。

そんなことを考えながら、新約聖書のユダの手紙を読んでいたら、こう書かれていることに気が付いた。

あなたがたはすべてのことをよく知っていますが、思い起してほしいのです。イエスは民をエジプトの地から救い出しましたが、その後、信じなかった者たちを滅ぼされました。
ユダの手紙 5 新改訳2017

まさに、これは、旧約聖書の主人公がイエスだったことの証拠聖句だよね。なんでいままで、ずーっと気が付かなかったんだろう **。

註)
*  Cf. ヨハネ 1:5
**  気づかなかったわけは、ユダの手紙5節の翻訳に関して、新改訳2017は底本の「本文」の読みを採用しているのに対し、聖書協会共同訳は「異本」の読みを採用しているためであることが、わかった。新改訳2017と聖書協会共同訳の底本は同じ『聖書協会世界連盟・ギリシャ語新約聖書修正第五版』を使用しているんだけど、第五版の本文を素直に採用すれば「イエス」に。異本として挙げられている読みを採用した場合には「主」となる、というわけだ。聖書翻訳のベースに用いられる底本については、世界中にあるたくさんの古いパピルスや羊皮紙の伝本を比較照合することによって、最も古い、つまり、「最初に書かれた当時の文章」に最も近いものを再現しようとして、学者たちによる研究と修正が日々重ねられている。ユダ5については、修正第三版の本文では「主」だったんだけど(第三版を底本としている新共同訳聖書は「主」としている)、第五版の本文では「イエス」になっている。これは、研究の結果、「最初に書かれた当時の文章」では、おそらく「イエス」と書かれていた可能性が高い、と判断されたことによる変更だ。今後、ユダ5について、もっと古いパピルス写本が発見されて、もしそれに「主」とあった場合には、修正第六版では再び「主」に戻る可能性があるし、もちろん、発見されなければ、「イエス」のままになるだろう。
【追記】自分の手元には『ネストレ・アーラント版ギリシャ語新約聖書第26版』しか無いのだけれど、それのユダ5の脚注を見ると、異本として挙げられているP72 というパピルスでは「神であるキリスト」(テオス・クリストス)となっていた。つまり「神であるキリストは民をエジプトの地から救い出しました」と書いてあるんだ。これって、すごくない? このP72 という写本は、ボドマーによって1952年にエジプトで発見された古いパピルス群(ボドマー・コレクション)の中のひとつだ。パピルスの年代は3世紀から4世紀で、その中には西暦200年頃のものも含まれている。P72(ボドマー・パピルスVII)は、「ユダの手紙」の写本としては最古のものなのだそうだ。

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