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死ぬヒマなんかない、っていう話です。

体力も気力も充実しているときは、がんがん外に打って出る、っていう気持ちになって、ほんとうに簡単に自分を前面に押し出して行くことができるんだけど。。。

でも、ぜんぜんそうなれないときもある。。。

そういうときは、思うんだよね。

あー、元気だった自分っていうのは、ほんとは別に元気でもなんでもなくって、アドレナリンのおかげだったんだなー、って。。。

晴れの日も、雨の日も、嵐の日も、曇りの日も、それはそのままほんとうの世界であるように、自分もそうだよね。

どういう状態であろうとも、それがそのままほんとうの自分なんだ、っていうことを、最終的には受け入れるしかない。

今日の聖書の言葉。

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
ヨハネによる福音書 20:21 新共同訳

それにしても、アドレナリンが出ない日には、自分には何か別の内発的な力が必要だ、ということを感じざるを得ない。

自分のなかにパワーがないので、別のところから電源を引っ張ってくる感じだね。。。

イエスの弟子たちは、イエスが十字架につけられ、墓に葬られたのを見て、恐れにとらわれ、家に鍵をかけて閉じこもってしまった。聖書のなかで自分がいちばん好きな場面だ。

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
ヨハネによる福音書 20:19 新共同訳

なんでそんな場面が好きかと言うと、その先の展開に胸がすーっとするから。。。

そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。
ヨハネによる福音書 20:19-20

なんと、復活したイエスは、壁を通り抜けて部屋のまんなかに立ち、手にきざまれた十字架の釘あとを見せながら「平和があるように!」って弟子たちに言ったんだ。

この場面を思い浮かべながら、鍵をかけた家の壁を通り抜けることができるイエスは、自分のココロのなかにも入って来ることができるんだ、って想像してみる。。。

そして、イエスの手のひらをココロの目で見ようとしてみる。その手にきざまれた十字架の釘あとは、復活がリアルであることを示している。

傷つけられて死んでも、さくっ、と復活したイエス。そのイエスに結ばれている自分は、たとえ今日、傷つけられることがあっても、さくっ、と復活することができるはず。イエスの力によって。。。

。。。という希望を抱くことができるんだ。

そこからの今日の聖書の言葉。

あなたがたに平和があるように!
父がわたしをお遣わしになったように
わたしもあなたがたを遣わす

復活のイエスは外側から自分をアシストしてくれるだけじゃない。内発的なパワーを供給してくれるんだ。その約束が、これ *。

そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい」

イエスのスピリットである「聖霊」は、自分のなかに入ってくれて、内側から生かす命となってくれる。

だから自分は、このゴスペルを歌いながら外に出て行くことができるんだ。

 イエスと共に生きる
 だれも邪魔できない

 イエスと共に生きる
 だれも邪魔できない だれも
 だれも邪魔できない

 いつでもどこでも イエスと生きる
 いつでもどこでも イエスと生きる
 いつでもどこでも イエスと生きる
 死ぬヒマなんかない!

 Ride on King Jesus, ride on
 No man can a-hinder me

 Ride on King Jesus, ride on
 No man can a-hinder me
 No man can a-hinder me

 I keep so busy praising my Jesus
 I keep so busy praising my Jesus
 I keep so busy praising my Jesus
 Ain't got time to die !

註)
*  Cf. ヨハネ 20:22

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