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神の物語の回収=自分の物語の回収

世の中にはいろんなストーリーがある。ストーリーを読んだり見たりするとき注意するポイントがあって、それは、伏線がどこに張ってあって、どう回収されるか、というところだよね。まあ、構成が不味くて回収に失敗しているものや、不条理劇みたくはなから回収する気が無いのもあるけど。

今日の聖書の言葉。

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ
ヨハネによる福音書 1:29 新共同訳

バプテスマのヨハネはイエスを見て「神の小羊だ」と言った。このひとことで旧約聖書の伏線がぜーんぶ回収されるんじゃないかと思う。あるいは、このひとことを成立させるために旧約聖書の全ボリュームが書かれた、と見ることもできるかも。

はじめの人間が神に背を向けて生きることを選択したとき、神は動物の毛皮で衣をつくって、裸の人間を温かく覆った。おそらくこれが最初に張られた伏線なんじゃないかと思う *¹。

で、この出来事以降、神の前に何も持たないゼロ状態の人間、それどころか、罪を犯してマイナスになっている人間を「覆う」ために、羊や山羊や牛や山鳩といった犠牲(いけにえ)が、繰り返し、繰り返し、ささげられて行く。その様子を旧約聖書は克明に描いて行く。。。

失敗しては覆われ、再出発しては、また失敗して覆われ、それでもまた出発するけど、またまた失敗して覆われ。。。延々と繰り返される失敗。。。それを覆うために延々とささげられる犠牲。。。

やがて犠牲は惰性となり、止める気の無い悪事を覆い隠す手立てとして利用されるようになり、怒り心頭に達した神は、犠牲のシステムを含めたエルサレムの神殿を破壊するという挙に出て。。。まるで星一徹のちゃぶ台返しみたい。。。旧約聖書のストーリーは、人間の失敗、それを覆う犠牲の羊、そして、犠牲の羊をささげながら神に背を向け続ける人間の悲しい姿を描き出す。

わたしが喜ぶのは
愛であっていけにえではなく
神を知ることであって
焼き尽くす献げ物ではない。
ホセア書 6:6 新共同訳

これらの伏線を回収しないで旧約聖書は終わるんだけど、それをガッツリ引き継ぐ新約聖書は、「神の小羊」というたったひとことのうちに全部引っ張り込んで救い上げる。

神の小羊。。。つまり、最終的そして究極的に、神が(すべてを創造し、だから、すべての原因である神が)神みずから「小羊」となって犠牲となり、神の命を注ぎ出し、そうすることによって人類の罪をつぐない、完全な赦しを与える。それがイエス・キリストの十字架と復活のストーリーだ。

血を流すことなしには
罪の赦しはありえないのです

ただ一度イエス・キリストの体が
献げられたことにより
わたしたちは聖なる者とされたのです

キリストは…御自身の血によって
ただ一度聖所に入って
永遠の贖いを成し遂げられたのです
*⁴

わたしは、彼らの不義を赦し
もはや彼らの罪を思い出しはしないからである
*⁵

旧約聖書の伏線がキリストのうちに回収されるように、自分の人生の伏線のすべてが。。。あの失敗。。。この悩み。。。隠していること。。。恥ずかしいこと。。。忘れたことにしていること。。。傷になっていること。。。自分を縛っていること。。。すべてが残らず「神の小羊」のなかに回収されて行く。そして自分は新しくなる。そのことを今年の受難週とイースターにもう一度、体験しよう。

生ける神、あなたは
わたしの過去をキリストの中に埋められ
わたしの未来をも担ってくださいます *⁶

註)
*1.  Cf. 創世記 3:21
*2.  Cf. ヘブライ 9:22
*3.  Cf. ヘブライ 10:10
*4.  Cf. ヘブライ 9:11-12
*5.  Cf. ヘブライ 8:12
*6.  ブラザー・ロジェの祈り

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