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良い風が吹くのを待ちながら、祈る。

おくびょう風に吹かれた、っていう言い回しがある。

どんな風だろうね、おくびょう風って?

国語の辞書的な意味で言うと、「臆病な心が起こる。 こわくなる。 おじけづく」(by Kotobank) ってことなんだけど。。。

「風に吹かれる」っていうのは、「強い風に吹かれて動くさま」(by Weblio) だって。

強い風に吹かれるかのように、こころが思わぬ方向に行っちゃう、ってことかな。

なんか外的な要因があって、それに自分のこころが影響されて、おくびょうな方向、こわい方向、おじけづく方向に動いちゃう。自分の意に反するかのように。。。

まあ、あるよね、たまに、そんなこと。

あれほど意気込んで臨んだのに、いざ、となると、ひゅーって気持ちがしぼんじゃう、みたいな。

そうなっちゃうと、自分で自分をどうすることもできない。

まるで、強風に吹きまくられてコントロール不能に陥った「凧」みたいな感じだ。

今日の聖書の言葉。

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。
テモテへの手紙二 1:7 新共同訳

おもしろいことに、旧約聖書のヘブライ語の原典でも、新約聖書のギリシャ語の原典でも、「風」っていう言葉は、「霊」という意味も持たされているんだよね。

ヘブライ語の「ルーアハ」は風とか息とか霊という意味。

ギリシャ語の「プネウマ」も風とか息とか霊という意味だ。

風と息と霊。。。とくに神の霊。。。それらが、ひとつの言葉で表現できる。それが聖書の世界観なんだよね。

たぶん、目に見えない、いろんな「風」が、この世界に吹いているんだと思う。。。

自分は主体的に生きている、自分の選択・意志で動いている、って思っていながら、実は、いろんな「風」に吹かれて、その結果として動かされている、という面があるんじゃないかな。。。

自分は決然と行動したいのに、おくびょう風が吹いて、もう、なすすべもなく、弱気になっちゃう。。。

そんな風が人生に吹く日がある。

自分はダメダメだと思って落ち込んでいたのに、力と愛と思慮分別の風が吹いて、がぜんヤル気が出て来る。なんなんだ、この全能感? どっから、これ、湧いて来たのよ? これ、自分じゃないよな? みたいなふうになる。。。

そんな風が人生に吹く日もある。

主体性をもって生きたい、と願っていても、主体になりきれない、主体性に徹しきれない。。。

そういう時のほうが、多いよね。

だから、良い風が吹くのを待とう。

良い風が吹くように祈ろう。自分のためにも、他者のためにも。

願わくは、いつも追い風が
あなたの背を押すように
願わくは、太陽の輝く光が
あなたの顔を照らすように
願わくは、あなたの田畑を
雨がやさしく潤すように
願わくは、神の御手の中で
あなたが守られるように
私たちが、再び相まみえる
その日がくるまで
 *

註)
*  「ケルトの祝祷と祈り」より

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