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静けさを得るためには、無音室、砂漠の洞窟、高い柱が必要だろうか? いや、お金をかけなくても、できるんじゃない? っていう話です。

静かで、落ち着いた生活をするには。。。

静かな環境に行けばいい。。。

ってことが、単純に成立すればいいんだけど。。。

現実は、そう簡単には行かないよね。

音に過敏な人が、音のない世界にあこがれて、あらゆる音を遮断する無音室を作って、入ってみたんだけど、音から逃れられるかと思いきや。。。

自分の血流のザーザーいう音や、心臓の鼓動の音が、すごいボリュームで聞こえ始めて、絶望した。。。

いちばんうるさい存在は、自分だった、っていうオチ。。。

そういう「世にも奇妙な物語」の回があったよなあ。。。

今日の聖書の言葉。

あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。
ヤコブの手紙 3:13

自分を、まるごとそっくり「分別」(ぶんべつ)して、世界の外に出すことによって、静けさを得ようとしたクリスチャンたちが、むかーし、いたんだって。

そのひとたちは「柱頭行者ちゅうとうぎょうじゃ」って呼ばれた。

世界から自分を切り離して静けさを得るには、当時、選択肢が2つあるとされていた。

ひとつは、人里離れた砂漠の洞窟に入って、生活する方法。

もうひとつは、町のなかに高い柱を立てて、その上で生活する方法。

柱が高ければ高いほど、世界から離れられるので、30メートル以上ある柱の上で生活したひともいたらしい。

食事の時間になると、ロープに結んだバスケットを下して、弟子がそこに入れてくれたパンと水で、命をつないだという。。。

でもねー。。。

もし、自分が柱頭行者になっても、ちっとも静けさを得られない気がする。

だって、自分の存在そのものが、ガチャガチャ、ワサワサしているからね。

たぶん、自分をまるごと「分別」(ぶんべつ)して世界の外に出したとしても、上手く行かないと思う。

それどころか、反対に、静かな環境であればあるほど、自分のガチャガチャ、ワサワサ具合が全面に出てきちゃうんじゃないだろうか?

うん、そうなるよな。。。

絶対そうなる。。。

確実にそうなる。。。

どうしたらいいんだろうね?

もうひとつの方法としては、自分の内面を「分別」(ふんべつ)して、ガチャガチャ、ワサワサした要素を、ひとつ、ひとつ、意識の外に出して行くしかないよね。

地道にそれをやって行くしかない。

じゃあ、どうやって、ガチャガチャ、ワサワサした要素を、意識の外に出して行くのか?

自分のなかでアタマをもたげて、だんだん大きくなってきて、こころの舞台の上にせり出してきて、自分という存在を独占しようとして来る、考え・思い・想い・気分・感情・イメージ。。。

もうね、そんなヤツが、次から次へとワイてくる。

そいつらが、ガチャガチャ、ワサワサ、こころの舞台の上をかけずりまわっている。

でも自分は、それらを握りしめることをしないで、手放してしまう。レッティン・ゴーする。

それでも、まとわりついてくるようなら、自分はそれらによって支配されない、って、宣言する。

自分のしゅはイエスだ。イエス以外の何ものにも支配されることを拒否する。そう宣言する。

。。。っということによって、だろうかね。

この方法だと、まあ、無音室を作る必要はないし、砂漠の洞窟に行かなくてもいいし、30メートルの柱を立てる必要もない。

ガチャガチャ、ワサワサしている世界から、出て行く必要も、ない。

ここで・いま・すぐ・このまま、できる、っちゃー、できるのだ。

なので、この、最もお金のかからない方法で、静けさをゲットしてみることにしよう。うん、そうだ。そうしよう。

主イエス・キリスト、神の子、救い主
罪人つみびとであるわたしを、あわれんでください

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