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無限に増殖する神の愛

自分は数学が、からきしダメな文系脳人間だ。高校時代はテストのたびに赤点。追試につぐ追試。。。

なので、数学には良い思いがまったくない。けれど、「1」についての説明だけは、なんか、深く魅了されてしまったことが、一度だけあるんだよね。

どういうことかというと、「1」というのは、分割が可能なのものだ。1をふたつに割ると、0.5と0.5でしょう? 

でも、ふたつに割れるだけではないよね。どんどん割っていけば、どんどん分割できてしまえる。それが、どこまで割れるか、というと。。。

小数点がつく数字って、まるで底がないみたいな世界で、小数点以下が無限に続く場合には、どこまで行っても永久に数字が続くんだよね。。。そういう数字を無理数というんだけど、そいつでもって「1」を割ったら、いったい、どうなるの? とか考えると、頭がクラクラする。。。

こういうわけで、「1」というのは、もちろん1なんだけど、でも、無限に分割することができる、それ自体が1個の無限集合とみることができるんだ。

で、その無限集合に便宜上、1番という順番を割り振ってあげることによって、1は「1」になるという。。。うーむ。。。メマイがする(笑) 

今日の聖書の言葉。

主の慈しみは決して絶えない。 主の憐れみは決して尽きない。
哀歌 3:22 新共同訳

今日の聖書の言葉は、神の愛(いつくしみ)は、永遠に続く、けっしてなくならない、けっして終わらない、と言う。

神の愛は、無限だ、というのだ。

聖書は「神は愛です」と、とてもシンプルに宣言している *。

で、それがどういう愛かというと、神のなかに父・子・聖霊という三つの「位格」(ペルソナ)があって、その三つが、お互いに愛し合っている、という、人格的な愛なんだ。

父は子を愛し、子は父を愛し、そして、父と子のあいだを永遠にゆきかう愛が、聖霊であるという。それを三位一体(トリニティ―)と呼ぶ。

そして、神は無限の存在だから、神の愛も無限ということになる。

でも、無限って、単純な世界では、ないんだよね。だって、ふつうそこらへんに転がっている「1」が、そもそも無限集合だって言うんだもの。。。

無限には、いろんな種類があって、うっすーい無限もあるし、濃い無限もあるんだ。

たとえば、1、2、3、4、5・・・という、ふつうの数字を「自然数」と言うけれど、この自然数は、無限に続いていく。だから、自然数の無限集合が、あるわけだ。

ところが、2、4、6、8、10・・・というように、2で割れる「偶数」も、無限に続いていくよね。だから、偶数の無限集合というのも、ある。

で、自然数の無限集合と、偶数の無限集合を、比較してみた場合、どっちも無限ではあるけれど、濃さが違う、ということになるんだ。自然数の無限集合のほうが、偶数の無限集合より、2倍の濃度をもつ。

そうなると、いろんな濃度の無限集合があることになるよね。複素数、虚数、実数、有理数、無理数、整数、有限小数、循環小数、無限小数。。。それぞれが無限集合になり、それぞれのあいだで濃度が違う。

じゃあ、無限の神の愛の「濃度」って、どれぐらいなの? ということを考えると、「もうそれ以上の濃さを考えられないほどの無限の愛」ということになる。

ところがね。。。神は「もうそれ以上の濃さを考えられないほどの無限の愛」を、さらに無限に増殖させる方法を、思いついたんだ。。。

それは、どういう発想かというと、神の無限の愛が、ある。そして、その無限の愛をぜーんぶ受け止めることのできる存在を、2つ、用意する。

すると、その2つの対象が、神の無限の愛を受け取ることによって、神の愛の濃度が2倍になるわけだ。

さらに、3つ、4つ、5つ、6つ、と、愛の対象を増やしていくと、神の無限の愛の濃度が、3倍、4倍、5倍、6倍、と増殖していく。

これが、なぜ神は、神として存在しているだけで終わらずに、世界を創造することになったのか、という理由なんだと思う。

「もうそれ以上の濃さを考えられないほどの無限の愛」が、もっと無限に増殖していくための方法、としての、神による世界の創造、すべての被造物の創造、そして、人間の創造だ。

わたしたちが住んでいる宇宙は、何百億光年もの広がりを持ち、考えはじめると「宇宙コワイ」と思ってしまう。それほど宇宙が広すぎる理由。。。それは、そこに、無数の愛の対象を住まわせることによって、神の愛の濃度を、どんどん上げていくためだとしたら。。。神の愛、コワイ(笑)

註)
* Cf. ヨハネ一 4:16


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