黒板、ベクトル、人生。
自分は小学生のころ、算数が大の苦手で、それを克服できるよう、中央線のガード下の公文教室にかよわされてた。けど、いつも居残り組。みんな帰ってしまったあと、ひとり先生のまえで苦悶してた。。。
九九は暗記できたけど、いまだに、単純な足し算でも、指折り数えないと、できない。じゃあ、電卓つかえばいいじゃん、ということになるんだけど、不思議なことに、電卓で検算するたび、答えが異なるという。。。打ち間違えてると思うんだけど、慎重に打っても、だめ(笑)
そんなわけで、高校時代の数学は、いつも赤点。追試に次ぐ、追試。
原因は、授業を受けていて、変なことばかり考えていたからだと思う。。。たとえば、ベクトルって、あるじゃない? ある地点を出発して、別の地点に進んで行くさまを記述する、あの、矢印のやつ。
黒板にチョークで書かれたベクトルを見ると、考え始めてしまうんだ。。。ベクトルの上を動いている「そいつ」は、だれ? 「そいつ」は、何を動力にして、進んでいるの? 「そいつ」は、決められた線の上から、外れられないの? 「そいつ」は、終点についたら、どうなっちゃうの?
。。。そんな妄想がはじまると、とたんに、つまづいてしまう。。。
ベクトルって、むかしは苦手だったけど、いまは、なんとなく好きだ。それは、純粋に文系脳的な意味で。
どういうことかというと、いま、自分の人生って、なんなの? と考えたとき、ぱっと思い浮かぶのが、ベクトルだからだ。
出発地点があって、過程があって、終着地点にむかって、進み続けてる。そういうイメージ。。。まさに、人生じゃん?
そういう人生のベクトルを叙述している、ぴったりの聖句が、これ。
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
ローマの信徒への手紙 11:36 新共同訳
このベクトルに、大胆に自分をあてはめてみる。。。
自分は、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。。。
神が自分をつくった。。。その神が、どういう神なのか、自分にはまだ、わからないことだらけだ。。。しかし、神は、聖書をとおし、イエス・キリストをとおして、ご自身を現わしてくださった。。。その神に、顔と顔をあわせて会えることが、自分の最終目的地点。その「希望」にむかって、ひたすら進んでいる。。。
今日の聖書の言葉。
希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。 ローマの信徒への手紙 15:13
高校の教室の黒板にもどってみると。。。
ベクトルの上を動いている「そいつ」は、だれ?
⇒ 自分だよ。
「そいつ」は、何を動力にして、進んでいるの?
⇒ 信仰によって得られる、喜びと平和と希望によって、1日ごと、1時間ごと、1秒ごと、1ナノ秒ごとに、確実に進んでいるんだ。
「そいつ」は、決められた線の上から、外れられないの?
⇒ 神によって決定されてるので、変更不能。
「そいつ」は、終点についたら、どうなっちゃうの?
⇒ 神との抱擁、パラダイス、永遠の命。
「そうです、それが、わたしの人生です!」って心のそこから思えたときの、安心感は、たらまない。砂漠を水筒なしで3日ぐらい歩いてから、キンキンに冷えた水を飲むみたいな感じだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?