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勝つか、負けるか

誘惑と戦ってて、ほんとに激しい戦いの場合には、勝てる気がぜんぜんしなくて、絶望的な気持ちになりながら、祈る。

ふらふらで、祈る言葉もつっかえるようなときは、しょうがないので、デフォルトの祈りである「主の祈り」を唱える。くりかえし、くりかえし。。。

わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください。

そういうとき、ふと思うことがある。

神って、全知全能じゃん? すべて知っている、わけじゃん?

すべて知っている、ってことは、まさにいま自分が戦っている、この誘惑についての、勝負の結果を、もう神は現時点で知ってるんじゃないの?

神は、時間と空間を超越している。。。神が、神たるゆえんだ。。。

神にとっては、きのうも、今日も、あすも、1000年前も、1000年後も、すべて「いまこの瞬間」という扱いだ。

すごいよね。。。「永遠の命」という言葉を聞いて、永遠に生きるって、どれだけ大変か、って想像して、ビビったりする自分がいるけど、考えてみれば、神にとっては、永遠も現在なんだ。基本「いまでしょ、いま」しか、神にはない、ってことになる。

今日の聖書の言葉。

誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。
ヤコブの手紙 1:13 新共同訳

神は、人間を誘惑しない、と、聖書は言う。ほんとなの? これ?

人間が、人間を誘惑することが、あるよね。それは、相手の心を試すためだと思う。で、相手を試すのは、相手がどういう行動に出て来るか、期待しつつ、予想しつつも、実のところは、読めないからだ。

未知だから、相手を試す。で、相手が予想通りの行動をすることもあれば、予想に反した行動をすることもある。出た結果で、相手を品定めする。

これに対して、神には、永遠の現在しか、ない。つまり、神はいまこの瞬間、すべての結果を、ぜんぶ手にしている。。。全宇宙規模のすべての結果を、だ。スゲー、ほんと、神。。。

だから、そもそも神には、予想を立てる必要が無く、ゆえに、試す必要がなく、誘惑する必要も無い。すべての結果を、いまこの瞬間、目の前で見てるわけだからねー。

人間を誘惑するのは、時間と空間の枠組みの中に置かれていることで、認知の能力に限界をつけられた、人間か、あるいは、人間以外の理性的被造物(天使? 悪魔?)しかいないことになるんだ。。。

神はいま、どんな結果を、目の前で見てるんだろう。。。非常に楽観的なことを言えば、聖書にあるとおり「万事が益となる」ような結果を、見ているんだろうと思う。

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。 
ローマ人への手紙 8:28 口語訳

時空の中の住人である自分には、次の瞬間どうなるかすら、知ることはできないけれど、論理的なチャートを書くことは、ある程度できる。

誘惑に遭う ⇒ 祈る ⇒ 誘惑に勝つ ⇒ 自己肯定感が高まる ⇒ 高慢になる ⇒ 祈らなくなる ⇒ 自力で生きる ⇒ 誘惑に負ける ⇒ 自己肯定感が下がる ⇒ 悔い改める ⇒ キリストの十字架の贖罪によって赦される ⇒ 謙遜になる ⇒ 誘惑に遭う ⇒ ・・・

いまの自分にとっては、このチャートが無限ループで、ぐるぐる回っているように感じる。でも、神は、神が望む通りの最善の結果を、いま、すでに手にしている。そして、神にとっての最善の結果は、自分にとっても最善の結果であるはずなんだ。


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