#1000 千本ノックならぬ千本noteは今日で打ち止めだけれど、心のnoteは永遠に続く、っていう話です。
コロナ禍が始まってからスタートとしたnoteへの毎日の投稿。
1000本ノックならぬ1000本noteということで続けて来たけれど、本日ついに1000本目を迎えることが出来た。
この習慣は自分が尊敬する編集工学者・松岡正剛の千夜千冊というプロジェクトにインスパイアされた面もあったんだけど。。。
彼我の違いは、千夜千冊は一度取り上げた本は二度と扱わないという方針であるのに対して。。。
自分の場合は御祖師様(ジョン・ウェスレー)の Homo unius libri(一書の人)という座右の銘に従って、明けても暮れても聖書しか扱わないという方針だった。
まあ、引越しが多い上に図書費も無い自分にとってはセイゴーのように5万冊もの蔵書を参照なんて出来ない事情があるんだけれどね。
そんな自分が頼りにしていた広尾の東京都立図書館もコロナ中はクローズしていたし。。。
今日の聖書の言葉。
その1000本のnoteは書いたそばから何を書いたか忘れてしまうような感じだったけど。。。
でも、いま読み返してみると、どれもその日その時の自分の魂の必要に応じて書いてたみたいに思う。
しかし、どれも結論は結局同じで、それはつまりイエスが自分の魂の必要を満たしてくれる、っていうことだった。
もちろん、じゃあ、完全にイエスが満たしてくれるんなら、どうして翌日になったらまたぞろイエスに求めなきゃいけないの? 一回で完全に満たされたら、もう何もニーズは無くなるんじゃないの? っていう疑問はわくんだけど。。。
この謎を解いてくれたように自分が感じるているのが、14世紀の隠遁者であったノリッジの聖ジュリアン(1342-1413)だ。
彼女が見たビションでは、人間の霊魂は無限の広がりを持つ町のようになっていて、その真ん中にイエスが住んでいる。だから霊魂は祝福された神の国になっている、ってことだった。
ここで問題になるのが、イエスのサイズだよね。
永遠・普遍・無限・絶対・遍在・全能・全知である「神」がそのままのサイズであれば、そのボリュームも無限ということになるから、人間の魂を一回で一瞬で完全に満たすことができるんじゃないかと思う。
でも、その永遠・普遍・無限・絶対・遍在・全能・全知である神が極限まで小さくなってユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼葉桶のワラの上に赤ん坊として降り立った。それがイエスであるわけだから。。。
つまり、イエスの内容量は無限だとしても、その物理的ボリュームはすごく小さい、ってことになる。
だから、そのサイズなら、われわれの魂を一回で全部満たすってわけにはいかないのかもしれないね。
なので、何度でも何度でも何回でも何回でも、われわれはイエスを求めなきゃいけない、ってことになるんじゃないかと思う。
カトリックにとっては、それが毎日ホスチアを食べるインセンティブになるんだろうし、プロテスタントにとっては、毎日聖書を読んで「いのちのパン」であるイエスを魂の中に迎える、ってことになるんだと思う。
いま、ノリッジのジュリアンみたく心の目で想像してみる。。。
無限の広がりを持つ町のような自分の魂。そこには無限の数の部屋があって。。。
町の一番中心にある王宮には王であるイエスが着座しているけれど。。。
でも、まだ王を迎えていない空の部屋が無数に並んでいる。。。
今日、王宮から数えて1000番目の部屋にイエスが来てくれた。。。
当然それは、そこで終わりではなくって。。。
明日イエスを迎える1001番目の部屋が待っている。。。
1002番目も、1003番目も。。。それは無限に続いて行って。。。
だから、それを毎日noteに綴っていたら、無限のボリュームを要することになってしまう。そうなったら、きっとこの地球に、いや、この宇宙に収まりきらなくなってしまうんじゃないだろうか?
。。。というわけで、1000本noteを達成したから、明日からは何も書かないけれど、でも、心のnoteはずーっとこれからも続いて行くんだろうと思う。
それが続けば続くほど、自分の魂はイエスという無限のボリュームで満たされて行くんだ。
それではみなさま、いつか新しいエルサレムの真珠門茶館(パーリーゲート・カフェ)でお会いしましょう!
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