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なぜひとはライブに惹かれるのだろうね?

人と人が助け合って生きようとするとき、「旗印」のもとに一緒になって、共同体として生き始めることになる。

じゃあ、旗印って何よ? というと、それは、共同体を象徴するアイコンと、アイコンにまつわるストーリーを足したもの。それが、旗印じゃないかな。

自分はクリスチャンなので、教会という共同体に帰属することで、自分の生きる場所=死ぬ場所を保持している。教会の旗印といえば、言わずもがな、イエス・キリストだ。

イエス・キリストは、まさに生きたアイコン。だって、十字架につけられて死んだのに、よみがえって、いまも生きている、と言うんだから。

そういうわけで、イエスというアイコンは、十字架と復活のストーリーと密接不可分だ。

どんな共同体でも、共同体の起源にかかわるアイコンとストーリーを持っているけど、ストーリー(物語)は、ストーリーテラー(語り部)によって再生され続けないと、消えて行ってしまうんだよね。人間って、忘れっぽい存在だから *¹。

だから、共同体が続くためには、ストーリーの記憶を更新する、意識的な作業が必要だ。

記憶の更新のために考案されたのが「祭」なんじゃないかなー、と思う。舞台・装置・所作によって、共同体の起源にかかわる記憶が、ビジュアルに再現されるんだ。演劇とかドラマのルーツって、これなのかも *²。

でもねー。。。共同体のサイズが成長し、仲間と仲間の地理的距離が開くにつれ、ストーリーテラーに旅をさせたり、祭を出張して開催したり、というのは、難しくなる。そこで登場したのが、文字による記録なんだろう。

共同体の記憶を語るストーリーテラーの「話し言葉」を、書き起こして媒体に記録する行為。「書き言葉」の誕生だ。

これにより、記憶を更新する作業は、グーっと楽になった。だって、書かれたものを読めば、それでいいんだもん。

だけど。。。文字には残念ながら、生命の躍動が欠けているよね。「文字は殺しますが、霊は生かします」(コリント二 3:6)ってあるぐらいだ。そりゃ、何百年、何千年たっても変わらないという意味で、断然、文字のほうが記憶の保持に長けている。

にしても、生きた記憶として語られる「話し言葉」のライブ感、再現として演じられる「祭」の躍動感は、文字には無い。具象を抽象化し記号化したのが文字だからねー。しょうがない、っちゃー、しょうがない *³。

しかし、神は、神なので、インクで書かれた紙の中に、いつまでもずーっと囚われているわけではない *⁴。

今日の聖書の言葉。

見よ、新しいことをわたしは行う。
今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒れ野に道を敷き
砂漠に大河を流れさせる。
イザヤ書 43:19 新共同訳

神は、書かれた文字を突き破り、躍動する生命となって、現れる。なぜなら、神は、神だから。

このことについて新約聖書は、イエスの十字架によって、人類は律法から解放され、イエスの復活によって、人類に聖霊が注がれる、と宣言している。

わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。
ローマの信徒への手紙 7:6 新共同訳

無味乾燥な砂漠みたいな感覚のなかで、あふれ流れる命を経験するには、どうしたらいいんだろう? 

そのためには、聖なるテキストを黙って読み続けるだけでなく、声を出して言う、出来事を宣言する、ということが、必要じゃないかと思う。

「書き言葉」を「話し言葉」で更新することで、記憶を更新するだけでなく、アイコンとストーリー。。。イエスの十字架と復活の出来事。。。が持つ生命感と躍動感を体験することができるんだ 。

なので、声に出して、言ってみる。「救い主イエスさま!」*⁵

思い切って宣言してみる。「キリストは、よみがえられた! ほんとうに、よみがえられた!」*⁶

できれば、共同体の仲間と集まって、一緒に宣言できたらいいんだけど。。。でも、コロナ禍では、しょうがないので、Zoom越しにミュートを外し、声を合わせて言ってみよう。「キリストは、よみがえられた! ほんとうに、よみがえられた!」

そしたら、もう砂漠ではなくなってる。

註)
*1.  なぜ教会は毎週礼拝をするのか? 毎週どころか、時課を唱える教会では早朝・朝・昼・午後・夜・就寝前と毎日6回の祈りの時を持つわけだけど。。。これなどは、記憶の保持 VS 忘却曲線(人間は一日で記憶の半数を失う)とのあいだの熾烈な戦いを反映しているのかもしれない。
*2.  国家・郷土・職場・宗教の各共同体が崩壊して、個人がアトム化(原子化)にさらされている現代では、日本のアニメが世界中の若者たちに「アイコン+ストーリー」の代替機能を与えているんじゃないか、という論がある。特に「セカイ系」と言われる濃厚重大な世界観を提供するものが人気だよね。
*3.  固定された「書き言葉」にメロディーを付けることで成立する楽曲は、書き言葉寄り、ということになり、それだけライブ感が失われることになる。音楽の消費シーンでは、録音よりライブ、ライブ演奏でも即興が人気を集め、さらに、書き言葉の楽曲に即興的「話し言葉」が侵食している状況(間合いにラップが入った楽曲の増加)は、やっぱりライブ感への飢え渇きがあるからじゃないのかな。
*4.  紙媒体に記録されたストーリーに閉じ込められたアイコンが、そこから飛び出して現実世界に降臨し、新しいストーリーを紡ぎ出す、という旧約聖書+新約聖書の構造は、「フレームの囚人からキャラを解き放つ」というマンガのファンたちのムーブメントに、形而上学的な基礎を与えることができるかもしれない。
*5.  イエスの名をひたすら唱えることで救いを実感するスピリチュアリティは、日本では小西芳之助牧師の「恵心流キリスト教」や井上洋治神父の「南無アッバ」に先行的な実践例がある。
*6.  正教会系の教会では、イースター(復活祭)の朝にクリスチャン同士の挨拶として「キリストは、よみがえられた! ほんとうに、よみがえられた!」(ハリストス復活! 実に復活!)と言葉をかけあい、イエスの十字架の贖罪と復活の勝利を記憶すると共に、その出来事によって与えられる永遠の生命の躍動感を追体験する。

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